神道を知る講座VI〜第5回

昨日國學院大學の神道講座が5回で諏訪信仰を紹介した。諏訪大社の四分の一にお参りしたことがあるし、長野県に鎮座する神社だから比較的に近いので、特に興味を持ったテーマだった。四分の一というのは、ご存知の通りだが、諏訪大社では四つの社があるが、私がお参りしたのは、下社の秋宮だけだ。(確か。春宮だった可能性もあるが、秋宮だと思う。)この諏訪湖を亘って四つの社に分かれた形も独特だが、諏訪信仰には独特な習慣は多いそうだ。

だが、最初に岡田先生が諏訪信仰の普及を説明した。長野県には多いことは当たり前だが、新潟県には888の神社があることは、新潟県では明治時代の神社の合祀があまり進まなかったため、新潟県には4000あまり神社があるからだ。割合はまだ高いが、その数は驚くほどではないそうだ。そして、鹿児島県にも100社以上があるという。諏訪信仰の普及は、鎌倉幕府と深く関わっているそうだ。源頼朝の挙兵の時に諏訪の神様からの神託があったと言われて、勝利を得たときに諏訪神社を崇敬したという。仏教の僧侶と違って、神職はまだ俗人だから、政治の乱世にも巻き込まれてしまう。だから、戦争で応援する側を選ぶ必要があるそうだ。有力神社には社家は二つあることは、岡田先生によると南北時代に両方の朝廷に付くためだったそうだ。武家も同じように、例えば兄を北朝に、弟を南朝に付かせたようだ。戦の結果がどちらになっても、家の全滅にならないための工夫だったそうだ。

さて、軌道に戻ろう。諏訪信仰が特に北条家と深い関係をもったそうだから、北条家が指導力を握るようになったら、全国的に広まったよいう。そして、鹿児島県の諏訪神社は、島津家が諏訪神社に近い長野県(当時は信濃国)に荘園を得たからだそうだ。幕府によって南九州に送られた時に、故郷の神様も一緒に持って行ったそうだ。

諏訪大社のご祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)と妃神の八坂刀売神(やさかとめのかみ)だそうだが、建御名方神が古事記で登場する。あいにく、特に格好いい登場ではないのだ。国譲りの神話でタケミカヅチの命との力比べで負けて、諏訪湖まで逃げ去って、「殺さないでくれたら、このところからでない」ように誓ったと言う話だ。諏訪大社の神職が著さなかったことは明らかなのだろう。日本書紀にはこの神話はないが、持統天皇5年に諏訪大社への臨時祭があったとの記録がある。一緒に祭られた神社を見たら、風神の資格で祭られたことが分かるそうだ。そして、150年以上、中央の記録から姿が消える。これは、地方の神社の場合、珍しくないので、存続したことは疑わないが、詳細は分からない。

例えば、現在、下社では建御名方神と八坂刀売神が一緒に祭られているが、毎年2月1日に秋宮から春宮へ、8月1日に春宮から秋宮へ遷座するそうだ。一方、上社では、本宮では建御名方神を、前宮で八坂刀売神を祭るそうだ。しかし、本来、上社で建御名方神を、下社で八坂刀売神を祭ったのではないかと思われているそうだ。証拠は様々だそうだが、例えば湖を渡って夫婦が会う神話もあるし、下社には古い「売神祝印」(めがみほうりいん)との印が保管されているそうだ。それは、もともと女神が下社で祭られたように示唆するだろう。

神様の資格も複雑だそうだ。先ずは、上に述べた通り風神の資格もあるが、「みなかた」は「水潟」と言う意味だとの学説もあるそうだ。そして、湖の隣に鎮座する神社だから、水源を司る神様であれば当然だ。だが、風と水を司ることは、農耕の神様を意味するという。神道の神様にはこういう神様は当然多いので、信じ難くない学説だ。

一方、4月15日に御頭祭(ごとうさい)という祭りがあるが、現在鹿の首を二つ備えるそうだが、江戸時代以前、鹿の頭を75頭を備えた上で、ウサギの臓物も備えたそうだ。つまり、狩猟の祭りで、諏訪の神様は狩猟の神様だったと推測できる。実は、狩りとの関わりは深いそうだ。鎌倉幕府が鷹狩りを禁止した時にも、諏訪神社には免除があったそうだ。

このことから発生する仮説は、狩猟の神様の祭りは、縄文神道の面影になるが、農耕の祭りは、弥生神道の名残だということだ。もちろん、確定する証拠はないが、少なくとも興味深い仮説だ。ただし、私が知っている限り、イギリスに見つかる古代から続いてきたかのように見える祭りの殆どは、四百年以内始まったようだ。だから、諏訪の祭りは少なくとも800年まで遡ると認めても、さらに1500年を遡って縄文時代まで至るとは限らないだろう。

さて、ここまで書いてきたが、御柱(おんばしら)のことにまで触れていない。寅の年と申の年に巨大な柱が四つの社で四本ずつ取り替えられるが、これは御柱という。その原型は、本殿はなくて、柱が聖地を表したそうだ。実は、もう演説には時間はなかったので、岡田先生も詳しくなかった。伊勢の神宮の四季年遷宮に似ているが、立て替えられる建物は、本殿や拝殿ではなくて、宝殿だけだ。要するに、もともと本殿も拝殿もなかったのではないかと思われる。神道の原型を比較的に最近まで保ったようだ。

そして、最後に諏訪の大祝(おおほうり)のことをちょっと紹介した。これは、重要な役割で、複雑な特殊神事で新しい人が就任したそうだ。ただ、このところには十分もなかったので、詳しいところまで至らなかった。

これを聞いたら、やはり諏訪大社は、出雲大社と同じように、中央の神道と別な流れを汲むと思った。だから、神道の理解を目指したら、これも重要な勉強の目的になるだろう。


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