昨日の神道講座で岡田先生が興味深いことを述べた。熊野信仰とは直接な関係はないので、別な記事で取り上げたいと思う。
それは、神道の神観念は個人の感性による異なる、と。
例として、ある学者が神社の中にある御幣は十字架で死ぬキリストを表すと言ったことを紹介した。その意見を聞いた岡田先生は、20代前代だったので、抵抗を表さなかったが、やはり当時にも今にも賛成できないと言った。しかし、それはある人の感性であれば、岡田先生が否定しないとも言った。神道は広いとも強調して、学問の成果と信仰の内容の関係は密着ではないとも説明した。
西洋の宗教文化から来た私には、この立場は興味深い理由は、キリスト教などではあり得ないからだ。キリストは、実はニニギの命だと述べたら、キリスト教徒が強く否定する。寛容的に受け取ったら、それは別な宗教だというほどだ。一方、神道で同じようなことはただもう一つの神道の感性であると言われた。
私にとっては、これは神道の大変魅力的な点だ。なぜなら、昔から続いてきた宗教を見たら、どちらを見ても、間違いがあるからだ。地球の開闢にせよ、人類の関係にせよ、物の構成にせよ、宗教の教えが事実とズレることは多い。だが、殆どの宗教で、教えを受け止めないと邪悪だと言われる。だから殆どの宗教を調べたら、魅力的な点があるとはいえ、結局信じられないところが目立つ。神道も例外ではない。記紀神話は信じられない話だ。宇宙開闢を始め、神武天皇の話も事実とは無関係だと言えれば、気遣って言っても比喩的な関係に過ぎない。しかし、神道の場合、これは問題ではないようだ。神道を実践しながら本当のことを探ってもいいようだ。
これも、中世にも見える神道の倫理的な話とも合う。「直」と「明」と「正」を重んじるこの神道は、真実を明らかにするために正直に物事を検討することは大変相応しいと私が思う。だから、神道の枠を破らずに真実を理解するまで探検できるようだ。これは大変いい態度だと私が思う。だから神道を魅力的に感じる。
コメント
“神道と感性” への1件のコメント
神道の神観念は個人の感性による異なる、ってこと。
それは、神道には、神学がない!ってことに僕は、解釈しています。これは一神教との比較のうえで、とても興味深いことです。
どうして、神学なしで宗教が成り立つのかと考察を進めても面白そうです。
いや、反対に、キリスト教はなぜ神学を必要としたのか、と問うこともできます。
神道と感性の問題、僕にとってもテーマの一つですが、いずれ書き込みを通じて意見を述べさせてください。