小野氏の『神道の基礎知識と基礎問題』をまだ読んでいる。728頁だから、時間がかかる。(その上、私の日本語を読む速度はまだ遅い。一時間に10頁強しかできない。訓練を続けないと。)
さて、昨日戦前の神社の氏子制度にちいて読んだが、足立収氏の『神社制度要綱』を引用して、氏子の定義は以下の通りであったと述べる。
『氏子トハ、(1)或ル神社ノ(2)慣習ニ依リテ定マレル氏子区域ニ住所ヲ有スル(3)帝国臣民ナリ』
(戦前、特に明治時代に送り仮名をカタカナで表記するのは通例だったようだし、引用を現代化しない方針の本だ。平安時代の文献を引用する時、読みにくくなる。本文は幸い殆ど現代語だが、旧仮名遣いと現代使われない漢字は多い。この本は、普段より遅く読むよね。)
見ると分かると思うが、(1)と(2)は氏子の基本的な資格だ。氏子区域の外に住む人は、崇敬者になれるが、区域内に引っ越さない限り氏子にならない。だが、(3)が気になる。理由は、
『我国ノ普通ノ慣習ニ遵フノ意志アルモノト認メ難キヲ以テ』
とあるが、やはり不合理だ。慣習に遵うかどうかは、国籍によることではないからだ。日本国籍の人は、当時区域に住んだら自ずと氏子になったが、それはキリスト教徒で日本の習慣を洋風の習慣のために棄てる人も含めた。これは明らかに戦前の超国家主義の一部になったと言えよう。国籍だけでこのような性格は決まっていると思い込めば、不合理や倫理に違反する決断に繋がるので、自分の国は、他の国と異なって特別な権利を持つと判断することになる。どこの国でもこのような癖があるので、制度的に裏付けるのは大間違いだと私が思う。むしろ、制度で国籍だけで意味はあまりないと強調すべきではないか。ある国生まれ育ちではない限り身につけにくいことはあるが、国籍を持っても、外国出身であれば身につけることは純粋外国人と同じように難しい。一方、国籍は外国でも、国に生まれ育ちであれば、国籍を持つ人と同じように文化や習慣に馴染める。だから、国籍を資格とすることをなるべく避けたほうがいいのだ。
現代の制度は、神社によって異なるそうだが、外国人を氏子からまだ排除する神社はないように祈って止まない。