ホームベーカリーの失敗色々

家で二年間以上ホームベーカリーを使ってきたが、失敗を色々した。他の人に役に立つかもしれないので、結果を発表する。

電源を入れ忘れる:材料はそのまま。食べられないが、電源入れたら材料は使える。

羽根を入れ忘れる:食べられない。塊になるが、まだ小麦粉がそのままで上に載る。

お水を入れ忘れる:食べられない。塊にもならないし、単純に焼けた小麦粉になってしまう。

お塩を入れ忘れる:食べられる。味はちょっと甘くて不思議になるが、大したことはない。塩を入れた方がいいぐらい。

ドライイーストを入れ忘れる:ぺちゃんこになってしまう。だが、食べられるし、意外に美味しい。たまにわざとするほどだ。(ただ、ドライイーストは忘れやすいので、わざとする必要はない。)

さすがに私たちでも、小麦粉を入れ忘れることはない。今まで。将来にそれほどバカなことをする可能性は否めないけれどね。

大型遊具

日本の奥さんが夫を「粗大ゴミ」と称すると聞いたことがあるが(体験はないけどね)、今朝私が本格的に「大型遊具」になってしまった。朝ご飯を食べようとしたが、真由喜が人形を私の背中を登らせたり、滑り台の腕を滑らせたりした。ゆり子によると、大型遊具が大変役に立つので、粗大ゴミよりましだそうだ。

ちなみに、今日はまた暑かったので公園で遊ばせるわけにはいかなかった。その代わりに溝の口に行って、デパートの中の子供広場で遊ばせた。そこで保育園のお友達とママと偶然に会ったので、二人で遊ばせた。ちゃんと一緒に遊んだが、抱き合うかプロレスごっこかが曖昧になった場合もあった。と言っても、二人とも笑顔で楽しそうだったので、見るだけで嬉しくなった。

お昼を食べようとしたら、真由喜に「お昼たべようか」と言ったが、真由喜が「いやだ。まだ遊びたい」と拒絶した。少し待って、もう一度提案したが、結果は同じだった。四回も言ったが、真由喜が合意うしてくれなかった。だが、それから急に真由喜が「じゃぁ、お昼食べようか」と言った。お友達のお母さんがびっくりして、自分の娘も聞かせた。お友達も真由喜の提案に従って、素直に遊び場を去った。

お友達のお母さんが驚いたが、真由喜がよくこういう風にする。遊びを止める提案を挙げたら、最初に拒絶する。二歳だから、当たり前だろう。だが、怒らずに説明しながら繰り返したら、数分後自発的に従うことは多い。毎回ではないし、ほぼ毎回でもないが、大半だと思う。だからいつも余裕があるスケジュールを目指す。時間あれば、ストレスや癇癪なしにやりたいことができるからだ。時間がない場合もあるのは言うまでもないけれどね。

似顔絵

今日、ゆり子には臨時な仕事があったので、珍しく日曜日でも真由喜の面倒を一人で見た。午前6時半から遊んだが、5時半にやっと昼寝になった。だから、ブログを書く余裕が入手できた。

今日の遊びの中に、お絵描きがあった。真由喜が何回も顔を描いた。先ず、大きな丸を描いて、そして目と口を描いた。数回したら、耳も、鼻も、髪の毛も加えるようになった。最近身につけた能力だと思うので、積極的に試していると言えよう。

同じように、普通のボール遊びもしたが、真由喜が上手にボールをキャッチできるようになったことに気づいた。やはり子供の成長に連れて、急に何かができるようになる。

ちなみに最近真由喜の発声する英語の料が増えた。特に、英語で私に何か頼んだら、私が応じる確率は日本語より高い。例えば:

「遊びたい。」

「I have to work now. (もう私の仕事の時間だよ。)」

「ちょっとだけ。」

「I’m sorry, not now. (ごめんね、今はできない。)」

「Just a little bit. (ちょっとだけ。)」

「Oh, all right. (じゃ、ちょっとだけだね。)」

これは、言うまでもない、私の作戦だ。真由喜には、英語を使う動機を与えるためだ。まだ祖父母に英語で話してくれないが、それも時間が経ったらするようになるだろう。

戦前の氏子資格

小野氏の『神道の基礎知識と基礎問題』をまだ読んでいる。728頁だから、時間がかかる。(その上、私の日本語を読む速度はまだ遅い。一時間に10頁強しかできない。訓練を続けないと。)

さて、昨日戦前の神社の氏子制度にちいて読んだが、足立収氏の『神社制度要綱』を引用して、氏子の定義は以下の通りであったと述べる。

『氏子トハ、(1)或ル神社ノ(2)慣習ニ依リテ定マレル氏子区域ニ住所ヲ有スル(3)帝国臣民ナリ』

(戦前、特に明治時代に送り仮名をカタカナで表記するのは通例だったようだし、引用を現代化しない方針の本だ。平安時代の文献を引用する時、読みにくくなる。本文は幸い殆ど現代語だが、旧仮名遣いと現代使われない漢字は多い。この本は、普段より遅く読むよね。)

見ると分かると思うが、(1)と(2)は氏子の基本的な資格だ。氏子区域の外に住む人は、崇敬者になれるが、区域内に引っ越さない限り氏子にならない。だが、(3)が気になる。理由は、

『我国ノ普通ノ慣習ニ遵フノ意志アルモノト認メ難キヲ以テ』

とあるが、やはり不合理だ。慣習に遵うかどうかは、国籍によることではないからだ。日本国籍の人は、当時区域に住んだら自ずと氏子になったが、それはキリスト教徒で日本の習慣を洋風の習慣のために棄てる人も含めた。これは明らかに戦前の超国家主義の一部になったと言えよう。国籍だけでこのような性格は決まっていると思い込めば、不合理や倫理に違反する決断に繋がるので、自分の国は、他の国と異なって特別な権利を持つと判断することになる。どこの国でもこのような癖があるので、制度的に裏付けるのは大間違いだと私が思う。むしろ、制度で国籍だけで意味はあまりないと強調すべきではないか。ある国生まれ育ちではない限り身につけにくいことはあるが、国籍を持っても、外国出身であれば身につけることは純粋外国人と同じように難しい。一方、国籍は外国でも、国に生まれ育ちであれば、国籍を持つ人と同じように文化や習慣に馴染める。だから、国籍を資格とすることをなるべく避けたほうがいいのだ。

現代の制度は、神社によって異なるそうだが、外国人を氏子からまだ排除する神社はないように祈って止まない。