戦争、責任、謝罪

終戦の65周年になった。アメリカ大使が広島の原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に参列したし、菅首相が韓国併合100年を機に首相談話で謝罪した。アメリカで、大使が参列するべきではないとの声もあるし、日本でも談話に反対する声明も挙げられた。自分の国を正しいと評価したい傾向は世界中共通で、戦争の歴史がある限り、過ちに繋がると私が思う。

戦争を尽くそうとすれば、弾みは如何に正義に従っても、途中で戦犯を犯すことは極めて避け難い。倫理的に妥当な戦争があれば、ナチスドイツとの戦争はその例であることは否まれないだろうが、その戦争の経過でイギリスやアメリカがドイツの都市を全体的に破壊して、ドイツの子供を意識的に抹殺してしまった。それが戦犯であったかどうかは論争の焦点になるが、少なくともいいことではなかったのは明らかだ。それに、植民地を支配する国の歴史には過酷な出来事があるのは決まっているようだ。例えば、オーストラリアのタスマニアの先住民は、イギリスの帝国によって絶滅された。自分の国にはそのような歴史があれば、自分の国を正義の味方として思うために歴史の事実に目を潰す必要がある。そうする人は世界中少なくない。

しかし、自分の国の歴史をちゃんと認めたら、そして人類の歴史を認めたら、現状をよりよく分かるし、過ちを繰り返さないようになる。過酷な戦犯を犯した人は、人間の姿を纏った悪魔ではなかった。殆どは、普通の人間で、当時の風潮に流されて、当たり前だと思った。普通の人間に民俗大虐殺はしやすいことに悟ったら、自分や自分の国がこのような許せないことを犯す可能性を認めなければならない。そして、「私たちは悪魔ではないので、私たちがやることはそんなに酷い筈はない」のような甘い考え方から卒業する。

そして、過去と取り組むために、どうすればいいのだろう。謝罪すべきと思わざるを得ない。確かに、時間が経ったら、補償の問題は極めて難しくなる。罪を犯した人はもう死んだし、被害を蒙った人も死んだので、犯さなかった人から苦しまなかった人に補償を渡す理由は何だろうという疑問を抱くことがあるからだ。しかし、謝罪すべきことは明らかだ。

謝罪すべき行為には利点があったとしても、それでも謝罪すべきだ。私がある人の家に侵入して、荒らされたり、テレビを壊したり、愛犬を殺したりしたら、謝罪する必要があるのは否めない。私があの家で地震対策の工事を無償で行ったとしても、その工事のお陰であの家族が大震災を生き残ったとしても、侵入や侵害を謝罪する義務はまだある。他の空き巣の犯人が一切謝らないとしても、私には謝罪する義務があることには変わりはない。

以上のことを踏まえて、イギリスのカメロン首相が菅首相と同じように謝罪するべきと思う。しかし、イギリスの首相が怠るからといって、日本の首相も怠るべきとは言えない。

だから、菅首相の謝罪を評価する。


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