神道を知る講座VI〜第9回

今年度の國學院大學の神道を知る講座がもう終了に向かっているので日本全国で有数の信仰に至った。今週の講義のテーマは、伊勢信仰だった。天照大神{あまてらすおおみかみ}を始め複数の重要な神様を祭る伊勢の神宮{じんぐう}がこの信仰の中心となるので、講義の大半は神宮について語ったが、信仰の広がりについても触れた。

岡田先生が鎮座の伝承から始まった。周知の通り、内宮{ないく}が垂仁天皇の御代に天照大神の神託によって倭姫命{たまとひめのみこと}によって建立されたそうだ。これはまだ神話の世界に入っているので、内宮の本当の発祥は未詳なのようだ。(ただし、岡田先生がこのことをはっきり言わなかった。次の話の主旨によって推測できたことだ。)だが、最近奈良県桜井市の纏向{まきむく}遺跡から始まったら、三輪山を通って東南東へ向かったら、いよいよ神宮の鎮座地に着く。その延長線上、アワビの御贄{みにえ}が奉る海岸にある国崎{くざき}がある。反対方向に行ったら、結局出雲大社に辿る。その上、纏向遺跡の都市は、東西軸で設置されたそうだ。だから、岡田先生がこの配置は偶然であるとは信じないようだ。纏向遺跡は3世紀まで遡るそうだから神宮も同じ時期に建立されたかもしれない。

外宮{げく}の鎮座は、雄略天皇の御代に起こったと伝わる。雄略天皇というのは、五世紀後半の人物だったので、外宮のご鎮座も五世紀後半だっただろう。岡田先生によると内宮と外宮のように主な神と使いになる神がセットになる場合は少なくないそうだ。もともと香取神宮と鹿島神宮も同じような関係があったそうだし、宇佐神宮でも食物を司る摂社も鎮座するそうだ。

神宮と言えば、やはり式年遷宮だ。この制度は、日本書紀によると天武天皇の勅令で設定されたそうだが、最初の式年遷宮は、持統天皇が即位した年のの690年だったそうだ。式年遷宮に関わる書類が正倉院に保存され、遅くても奈良時代前半に制度があったので、日本書紀を信じるべきだと岡田先生が言った。

式年遷宮で主な社殿が立て替えられ、ご神体が新しい神殿に遷される巨大な儀式だ。神宮にお参りしたことがある方が分かると思うが、通常に社殿がない空間の中に、小さな小屋が立つ。この小屋が心の御柱{しんのみはしら}を覆う。心の御柱というのは、正殿のしたにあるほぼ150センチの長さで直径12センチぐらいの柱だ。明治維新以前、神宮の重要な祭祀で供物が心の御柱の前で、即ち神殿のしたで、供えたそうだ。その上、神殿の中でご神体の鏡が心の御柱の直上に安置されるそうだ。だが、心の御柱の三分の一が埋められたので、地上の高さは1メートルだが、神殿の床のしたで2メートルほどの空間があるそうだ。だから、建築の一部とは全く言えない。意味は宗教的で、象徴的だ。しかし、その意味は何か、よく知られないようだ。ただ、遷宮の後でそのままで残されて、次回の遷宮の場所を守る役割を担うそうだ。

式年遷宮の費用はかなり重いので、最初からそれを補う制度が設けられた。当初で伊勢に近い国が担ったが、平安中期になったら、全国の特別な租税で補った。中世になったら、この制度も衰退したので、伊勢の下級の神職が有力武士に訪れて、寄付を求めたそうだ。この活動のお陰で、伊勢進行が広まったようだ。にもかかわらず、応仁の乱の後で遷宮が120年中止になった。江戸時代に徳川幕府が費用を供給したし、明治維新から国家の責任になった。昭和28年の遷宮の準備が戦時下で始まったが、戦後遷宮が国費にならなかった。今度の式年遷宮が民間の三回目になるそうだ。

今週は特に粗筋になったが、勉強になった講義だった。やはり、伊勢さんのことは奥深いので、何回も勉強しても、学ぶことが残る。次回の最終回が八幡信仰について紹介するので、楽しみにする。