この本は、神職が著した本だ。奈良泰秀氏という方で、にっぽん文明研究所の代表としても勤めるそうだ。重要なポイントは、神社本庁傘下の神職ではないようだ。國學院大學出身で、神社本庁の神職の資格を得たようだが、今独立の活動を行っている。だから、この本で個人的で個性的な神道観念が窺える。本の原型は、雑誌での連載だったので内容の繫がりは弱い。連載から出たことは後書きで書いてあるので、後書きを読むまで「構成が西洋の構成と可成り違うな」とずっと思ったが、記事集であることが分かったら、「なるほど」と頷いた。前もってそう言った方が良かったと思うが、この感想投稿でも構成はちょっと緩い筈だ。本の中からテーマを抽出したいと思うので、材料から移ることは不可避だ。
先ずは、奈良氏が霊的な体験について語る。特に死んだ人の霊との接触を語る。そして、奈良氏の師だった神職と一緒に霊を祓うための体験も語る。これが神社本庁の神道の観念と可成り違う。このようなことに触れないように気をつけるように見える。要するに出版物を読んだら、日常的な経験や歴史しか出てこない。一方、神社本庁系の神職も、プラーベットでお話したら、日常のことを超える存在がいることとか、神の祟りなどに触れることは少なくない。私にはそのような経験は一切ない。そうすれば、このような話をどうやって受け止めたらいいだろう。
一つの選択肢として、語り手がわざと嘘をつくと思うことだ。この場合もあるのは確かだが、嘘であることを証明する証拠はない限り、私がこの解釈を避けたいのだ。しかし、前に言ったように、「死んだ人の霊を見た」という解釈も鵜呑みしない。何か不可思議な経験があったことを認めるが、適切な解釈や理解は何かについて、より慎重に考えたい。原因が後で明らかになった不可思議に感じられた経験も沢山あるので、すぐに一つの解釈に沈み込んで生活を変えないほうがいいのはもちろん、経験自体を否定せずに意味を考えた方針を取りたいと思う。
そして、神道の歴史についても奈良氏が独自な観念を持つ。神道が縄文時代まで遡ると強調して、神道の中で岩笛が重要な役割を担うとも言う。その上、所謂「古文書」にも興味を持つという。私の意見は、前にも書いたが、神道が縄文時代の祭祀と繋がる可能性を否まないが、神道と呼ぶべき宗教が古墳時代に発祥したことだ。神道をより古くさせれば、ただ解釈の混乱を招くだけだと思う。現在の神道との相違点が大変多くなってしまって、「神道」という名称が理解を妨げる。なぜなら、現在の神道のイメージを思い浮かばせて、古代の宗教の形を現在の神道の形で解釈させるが、別な概念で解釈するべきだからだ。
古文書の問題で、捏造された文書もあるが、『先代旧事本紀』も掲げる。奥書で聖徳太子編だと書いてあるが、それは確かに仮託だ。だが、奈良氏が言う通り、現在の学者の共通論は、9世紀に編纂された書物で、記紀に記載されない伝承を継ぐのだ。そうならば、なぜほぼ無視されるか不思議に思う。私も読みたいが、英訳はおろか、現代日本語訳さえ見つけられない。平安時代の漢文はまだ私には無理だから、まだ読んでいない。この点で、奈良氏が歎く現在の神道の養成の基盤の狭さは、私も歎く。
その上、中世や近世に偽作された文書も、神道の観念を伝える。私は、古いからと言って正しいとは思わないので、例えば吉田兼倶が偽作したとしても吉田神道の書物には興味のある点がある可能性が充分あると推測する。近代や現代の偽作でも、宗教観を伝えるが、今本物として作者に称えられた書物は、詐欺と係る恐れがある。だから、作者の本音の信条を反映しないかもしれない。だが、長く宗教で使われた書物は、作者が偽造したとしても、その後の信者が真剣に信奉したと思えるので、宗教の検討には役に立つと思ってもおかしくない。
最後に、本の冒頭に載っている内容を紹介したい。それは、外国人の神道を発生させたら、神道を活溌させたり、刷新すると言ったところだ。つまり他の文化から影響をまた受けて、現代に相応しい神道の発展することは望ましいと思うようだ。これは、私が勿論賛成する。
神道は日本人だけのものではない。それは、本の表紙に堂々と現れる。私も、その通りだと思う。