神道観念の序章

このブログを読む人に分かると思うが、私が神道に深い興味を持っている。神道についての書籍をもう50冊以上読んだことがあるし、五年連続的に國學院大學で神道についての講座を受講したし、神社に参拝するし、ご祈祷を執り行ってもらうし、家には神棚が設けられているし、さらに氏神様の例大祭で玉串を奉ることになった。その証拠で、第三者であったら、私も躊躇なしに「神道の信者だ」と判断する。だから、認めないわけにはいかないと思う。私は、神道の信者だ。

しかし、そう考えたら違和感がある。この違和感の淵源は、私のイギリスでの青春期にあるのだろう。当時、私が熱心的な原理主義者のキリスト教徒だった。その時私はキリスト教の信者だったと言ったら、違和感は全くない。そうだった。その通りだった。一方、今の状況を見たら、心の中を見たら、私と神道との関係は、青春期の私とキリスト教との関係と違うことが顕著だ。一瞬たりとも無視できないことだから、昔は信者であったと容易に認めたら、今の状況で慎重に「信者」という言葉を使った方がいいのではないかと思う。

問題の基本を探れば、漢字の意味で見つけるかもしれない。「信者」は、「信じる者」と言う意味を持つようだ。しかし、私が神道を信じると言ったら、違和感が強くなる。神道の神話を信じない。日本列島は、イザナミ命によって産まれなかった。天照大神が天の岩屋戸の中に身を隠れなかった。スサノオ命が島根県の斐川周辺で八岐大蛇という怪物を退治しなかった。ニニギ命が高天原から降りなかった。記紀で読める話は、壬申の乱まで疑う。キリスト教の信者だった時聖書の話のすべてを信じたので、これは重要な差異だ。

さらに、ご祈祷には超自然的な能力があるとは信じない。そういうことはないと言うことも慎重だが、信じるほどの証拠はまだない。神そのものも、複雑な態度だ。神話の通りに存在するとは思えない。(この点について前にも論じたけれども。)なぜそう思うかというと、知っていることと矛盾するし、それにそういうことを信じる為の証拠もないからである。生命の起源は、進化論に見つかるし、山などの誕生は、大陸の動きや火山の活動から起こる。そして、神話はただ昔の人が語った話に過ぎない。昔の人が様々なことについて間違えたし、それに身近なことについても大変な間違いも信じ込んだので(例えば、女性が男性より劣ると長く信じてきたが、明らかな間違いだ)、日常生活と離れた神の真髄について間違えないと強調したら、それなりの根拠は必要だ。「大変古い口伝だ」というのは、なかなか充ちない。

一方、私の神道に対する興味が学問的な好奇心で終わらない。私には学者の魂が宿るので、学問的な好奇心も重要な要素だし、それ抜きに私の興味は語れないが、決してすべてではない。より宗教的な要素も重要な影響を与える。ご祈祷を執り行ってもらう理由は、見て検討する為ではない。勿論、ご祈祷や祭祀に参拝したら、詳細を見て、頭の中で検討するが、それはただ私の性格だ。

その上、神道の神事には重大な意味が秘めると感じる。儀式に参加する自体も人間に強い影響を与えるとも思うが、このような心理学的な説明もすべてであるわけはない。同じように、共同体が一緒に祭を斎行することも重要で、絆を固めるとも思うが、これもすべてではない。何かが残ると感じる。

その残る要素は何だろう。

神の真髄の問題に戻ろう。神話に登場する神がそのまま存在しないことはもう述べたが、だからといって神が存在しないとは限らない。科学の枠組みに神が当て嵌まらないことは否めないが、科学には世界のすべてを説明する力はない。例えば、物理学から離れなくても、原論がまだ矛盾を抱えるので、少なくとも一部が誤るのは明らかだが、どうやって誤るかさっぱり分からないようだ。その上、科学でなぜ人間が世界を経験するか説明できない。脳の動きを測るようになりつつあるが、脳の動きで経験が発生する経緯を説明する為の糸口さえない。科学が進歩したら説明できるようになる可能性もあるが、そうなる為に霊力を科学的に説明するようになる可能性もある。歴史的に考えたら不思議な現象を説明する為に、科学の中に完全に新しい概念を取り込む必要があったケースは少なくない。放射能は顕著な例であろう。一方、科学は特定された検討する方法だ。それは、状況をコントロールして、客観的に現象を探検することで、そしてだれでも実験をまた行うように説明することだ。こういう風に検討できない現象はないとは限らない。科学革命の前の検討し方を見たら、圏外になる現象は無限だったので、科学もそうだという可能性がある。

だから、不思議な神懸かりや神隠しや託宣の経験の原因は、科学がまだ分からない現実である可能性がある。ただ、伝統の説明も信じるべきではない。根拠を見つける方法が見つからない限り、「わからない」ままで留まるしかない。私は神に対してこのように考える。何かがある。だが、その「ナニカ」は、人間の想像力の中にあるか、科学がもう説明できる現象にあるか、もしくは科学が、新しい概念を使ったら説明できる現象にあるか、それとも、ひょっとすると、科学が不向きな現象にあるか、まだ分からない。

この点で、キリスト教や仏教に対しての態度と共通する。聖書が現実を語るわけはないが、ナニカがある。そういえば、なんで神道に興味を持つかと聞かれたら、答えづらい点もある。私もよく分からないことがある。ただ惹かれるだけだ。

しかし、説明できる側面もある。キリスト教に属する為に、嘘のことを信じるふりする必要がある。キリストが甦ったと信じる根拠はないし、信じるべきではない。そして、倫理的にも、納得できないことを信奉する義務もついてくる。仏教も、イスラム教も私にとって同じだ。一方、神道で神話が現実を語ると信じる必要は一切ないようだし、強く対抗したい倫理の主張もない。神道の「言挙げせぬ」がこの状況に大きく貢献すると思うが、神道に潜在することを見ても、抵抗感が弱い場合は殆どだ。

だから、神道に興味を持って、このブログで私の興味の本質や神道観念について公表したいと思う。神道の基盤には「言挙げせぬ」があるとしても、私の哲学者の魂に黙ってみることは出来ないので、ちょっと語りたいと思う。神道の中の重要な様子を論じて、私を惹かれる神道を紹介したいと思う。私の立場を分かっていただいたら嬉しい。そして、「私は、この神道の信者だ」と違和感なく言えるようになるのであろう。


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コメント

“神道観念の序章” への2件のフィードバック

  1. takai junのアバター
    takai jun

    とても、共感できます。
    私が、キリスト教社会で、「貴方は神道の信者か」とたずねられたら、かなり返答にこまります。大方の日本人ならそうでしょう。
    キリスト教を信じるように、神道を”信じて”いるわけではないから。
    私なら、以下ように答えるしかありません。

    この世には、畏怖すべき対象がたくさんあると感じています。そしてこれらの対象を関わりあう流儀をわきまえています。この流儀が神道と呼ばれています。
    キリスト教のGodが唯一絶対であることに、違和感を感じますが、神道で神をよぶもの同様に、畏怖し、敬うものであることは理解しています。

    私は、アイルランドの辺境を旅したことがあります。そこには、キリストや聖母の像がたくさん残されていますが、これらの像に手を合わせることに何も抵抗がありませんでした。残念なことは、賽銭箱がなかったことくらいです。

  2. チャート・デイビッドのアバター
    チャート・デイビッド

    @takai jun 様、コメントをありがとうございます。そうですね。今尋ねてきてくれた母と神道について話すことがありますが、西洋の宗教の観念とかなり異なることを実感します。実は、私には、キリストの像の前で手を合わせることに違和感があります。なぜなら、心を偽るように感じるからです。キリスト教の信者であった時の気持ちはもうないので、あるように見せることに違和感があります。それは、もちろん、個人的な気持ちに過ぎませんが、このようなことは興味深いと思います。

    では、いつも貴重なコメントをありがとうございます。