神道を知る講座VI〜第10回

強の講義で今年度の講座が修了になった。最後の講義の話題として日本で一番普及された八幡信仰が挙げられた。日本には、三大八幡があると言えるが、周知の通り鎌倉の鶴岡八幡宮{つるがおかはちまんぐう}、京都の石清水八幡宮{いわしみずはちまんぐう}、そして大分県の宇佐神宮{うさじんぐう}だ。石清水八幡宮が宇佐神宮から勧請され、鶴岡八幡宮が石清水八幡宮から勧請されたので八幡様が東へ進行したと言えるが、講義で岡田先生が東から西への順で説明してくれた。

鶴岡八幡宮の前身は由比若宮と言う神社で、源頼義{みなもとのよりよし}によって建立されたが、鎌倉幕府を開いた源頼朝{みなもとのよりとも}によって現在地に移されたそうだ。そして、頼朝が篤く進行したそうだから、毎年元旦にご家人を連れて参拝した。岡田先生によると、これは元旦の初詣の始まりだそうだ。鎌倉幕府のご家人が八幡信仰に関わったので、領地を受けたら農業を促進する為に八幡神社を建立することは多かったというので、このきっかけに全国に普及したそうだ。

では、鶴岡八幡宮の起源は何だっただろう。それは、石清水八幡宮にあるそうだ。石清水八幡宮は、859年に建立されたそうだ。858年に即位された清和天皇{せいわてんのう}は10歳で、八幡の神託で「清和天皇の守護神として都に遷座を望む」と述べたようだ。遷座は、僧侶の行教によって行われたが、それが石清水八幡宮の本質をよく象徴することだった。神仏習合の色は大変濃かったが、この点に付いて後でもう少し書く。都の守護神は賀茂神社{かもじんじゃ/rt>}だったので、石清水八幡宮が天皇自身の守護神の役割を担った。その結果、清和天皇と繋がった清和源氏も石清水八幡宮の信仰を信奉したが、源頼義は清和源氏の一人だったので、石清水八幡宮を勧請して神社を建立した。

八幡の謎めいた起源に近づけば、宇佐神宮の話になる。宇佐神宮は北部九州に鎮座するが、特徴はかなりあるそうだ。宇佐神宮の建立は不詳だが、伝承に夜と712年に鷹居{たかい}神社に奉祀されたそうだ。716年に小山田{おやまだ}神社に遷座されたが、720年に南九州の隼人{はやと}が反乱して、八幡神が戦乱に参加して、隼人の大勢を殺したそうだ。だが、戦乱が終わったら、八幡神が反省して、罪を報うことにした。そして、宇佐神宮が現在地に移されるという。

宇佐神宮の本殿は山野上に鎮座する。古代の神社には、これは極めて珍しくて、例外は八幡神社に限られるそうだ。そして、神殿が三つあるが、南向けで、表参道から進むと、神殿の後ろに辿り着くので、前に回る必要がある。その上、元々信仰の対象だった山は東南にあるので、普通であれば神社の鎮座地は山の山麓で、山を背景にする形である筈だそうだ。変わった位置の理由は何だろう。岡田先生によると、八幡神が仏教に帰依し、山に籠ったからだ。要するに宇佐神宮は神様の仏教の修行場だったという。

八幡神は日本の八百万の神の内に仏教を一番好む神様だったと言えるだろう。明治維新まで「八幡大菩薩{はちまんだいぼさつ}」と呼ばれたが、神仏分離で「八幡大神{やはたのおおかみ}」と呼ぶようになったそうだ。「菩薩」は、ご存知の通り、仏教の呼称だが。仏ではないが悟りに向かっている存在を表す。そして、八幡大菩薩が殺生禁断を尊重して、八幡神社で所謂放生会{ほうじょうえ}がよく行われたし、魚などは供物に含まれなかったそうだ。この事実を踏まえて、神仏分離は八幡信仰への弾圧に近かったとも言えるだろう。

さて、この投稿を書く時間が無くなるので、最後に八幡信仰のご祭神についてちょっと書きたいと思う。岡田先生によると、八幡神社のご祭神は普通に応神天皇、姫神、神功皇后の三柱だそうだ。だが、応神天皇の父親の仲哀天皇を祭るところもあるし、応神天皇の御子神の仁徳天皇を祭る場所もあるそうだ。そして、姫神は、タマヨリヒメという神社もあるが、宗像{むなかた}の三女神という神社もあるようだ。この理由として、岡田先生が神道の求心力は弱いことを挙げた。仏教であれば、本尊を流派によって定めるが、神道はそうではない。神社が自分のご最新を決めてもいいし、歴史が流れれば名称を帰る場合もある。だから、八幡神社のご祭神について、一般的な説明が存在しない。むしろ、一つの神社には一つの説明があると言える。神道の不均一性がまた浮き彫りになる。

講義の最後に岡田先生が来年度の形についてちょっと語った。二年連続岡田先生がすべてを担ったので、ちょっと休むつもりだそうだ。次回は、『神道古典を読む』という講座が複数の教授に行われるそうだ。それも受講したいと思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: