産霊〜序章と成長

真由喜の三歳の七五三を執り行ってもらったら、お下がりと一緒に神奈川県神社庁教化委員会によって作成された『みんなの神様:天孫降臨』という冊子を頂いた。裏表紙には『「ムスビ」のちから』という記事が載っている。この記事の中で「ムスビの力とはすべての物を産み出す働きを表しています。」と書いてある。このムスビを「産霊」と表記して、私の神道観念にも中枢に位置づけたいと思う。

一般的で抽象的に言うと、産霊は創造と成長の力だと解釈する。産霊を尊崇することは、概念的に私の神道観念の中軸である。ここで留まったら、誰も反論できない概念になるだろう。「創造と成長に反対する」という人はいるだろうか。誰も反論できない概念には内容は乏しいとよく言われるが、私もそう思う。全く空虚な概念になるわけはないが、役に立つようにしたければ、より具体的に説明する必要があると言える。だから、この投稿で「産霊を尊崇すること」の具体的な説明と取り組みたい。

成長の力の側面から始めよう。成長する為に、生きることは大前提であるので、成長する力の下地として生きる力を尊崇する必要がある。ここで生きる為に必要な行為を評価する態度を指す。具体的に、食物を食べたり、飲物を飲んだり、必要に応じて眠ったり、寒さや暑さを衣類や建物で防いだりすることだ。所謂衣食住を評価する態度だ。これはまだ反論できない内容だと思われるかもしれないが、多くの宗教が異なる。仏教の修行で断食することも多いし、寝ずに読経を続けることなどは評価される。私の神道観念でこのような行為を評価しない。むしろ、産霊の軽視として捉えて、避けるべき行為だと言いたい。それに、食事を楽しむことも、基本的に産霊を尊崇する行為の一つであるので、やるべきだとも言える。努力してから温泉でのんびりすることも、力の回復になるので、いいことだ。一方、いつも怠け者にして、だらだらすることは、生きることに差し支えなくても、成長に繋がらないので、産霊の尊崇とは言えない。生きる為に食べるので、食事を満喫して楽しむのを評価するが、産霊は単に生き残る力ではない。今の状態の維持を超える力だ。

生きる前提を確保したら、成長そのものに力を注ぐことは産霊の尊崇を実現する行為の一種だと言いたい。成長には広い意味があるが、そのすべてが指したい。先ずは、生物学的に大きくなることも含まれている。小さい子供は、無意識で産霊の力を尊崇する。身体だけではなく、心も成長するからだ。同じように、人間ではない生き物も産霊の力の尊崇を表現する。茂る木々が山を覆えば、それは産霊を表現する。水田で稲が稔ることも、産霊の顕現だ。小鳥の成長も産霊の一種として尊重しなければならない。この点で環境が複雑になるが、問題を「共存」や「結び」について論じる投稿で詳しく語りたいので、ここで基本的な態度について書いておく。それは、肯定的な態度を取るべきだ。自然の万物の誕生と成長に対して抑制するべきではない。複雑になるが、方針はできるだけ自由に産霊を表すようにする行為をとるべきだと思う。具体的な意味は、後日に任せたい。

ここで、人間の人生の中の成長について具体的に私の考えを表す。今考えれば、三つの範疇に大別できるようだが、これ以外の方法もあるかもしれないとしても、この三つでもう広い範囲に及ぶ。一つは、経験や知識を豊かにする。もう一つは、能力や技術を磨く。最後に、共感や智慧を深める。順番に説明する。

経験や知識を豊かにすると言うのは、勉強はもちろん、旅なども包含する。書籍を読みながら日本の古代のことを学ぶことは、確かに知識を豊かにする行為だ。私なら、この方法が好きなのだ。しかし、これだけではない。富士山を登山することも、海で泳ぐことも、自然と触れることも経験を豊かにする。それに音楽を沢山聞くことも、人と会談することも、経験や知識を豊かにする。同じことを繰り返すのが包含されないが、同じように見えても毎回別なことに意識的に気づいたら、それも豊富な経験を得る方法の一つだ。例えば、毎朝日の出を見たら、毎朝雲の模様とか鳥の鳴き声などを意識すれば、この範疇に入る。ある意味で、刺激になることがすべてこの範疇に入る。どのような行為に重みを置くのは、個人の好みによってだと思う。

そして、能力と技術を磨くことは、分かりやすいだろう。能力や技術の内容を問わず、磨くのは成長の一つだから、その行為が産霊の尊崇を表す。産霊の他の側面に貢献する能力がより良いと思われるだろうが、他の目標はない技術もいいと強調したい。それより、産霊を本格的に尊崇する為に成長の為に技術を磨くべきだから、技術には他の目標がないと特に産霊尊崇の結晶だとも言える。確かに産霊に背く技術を避けた方がいいと言えるだろうが、産霊に背くことは、技術そのものより、技術の使い方にあるので、強くてもちょっと慎重に考えた方がいいという助言に終わるだろう。

最後に共感や智慧を深めることだ。人と自然と接して、生き方を理解することだと言えるだろう。技術や知識をどうやって使うべきことがわかるために必要な要素だ。言葉で表現するのは大変難しいが、知識の一種として捉えられたら、技術の一種としても捉えられる。しかし、指導的な役割を担う智慧を、区別したい。これを深める為に、オープンな態度は必要だと思う。いつも自分は正しいと思わずに、いつも前から持った解釈を強く維持せずに、得た経験や技術によって導かれさせることだ。特に他の人と接すれば成長する要素だが、それだけではない。何の経験でも智慧に貢献できる。

智慧でよく見えることは、この三つの成長の要素をはっきり区別することはできないと言うことだ。だから、ある行為が知識を豊かにする行為か、技術を磨く行為か、まったく拘らない。成長に貢献するかどうかは重要な基準である。

この成長は、生きる限り増すとも言えるが、産霊を尊崇する行為とは、積極的に促す行為だ。だから、積極的に人生と取り組んで、前向きに新しい経験を求めたり、新しい知識を探したり、新しい人との付き合いを受け止めたりすることだ。そして、自分だけではなく、他人にも促進や貢献する行為が含まれる。教師として働くそのものは、産霊を尊崇する行為だと思わざるを得ない。(ラッキー!)

他の具体的な例として、選手が思い浮かぶ。技術を磨くのは主な行為だから、産霊を尊崇するほかならない。芸能人が自分の技を高めようとすれば、それも産霊を尊崇する人生だ。だから、所謂インテリの間に芸能人やスポーツ選手を軽視する傾向があるようだが、私はそれとはっきり違う。知識を積み重ねるインテリも産霊を尊崇する生活を送っているが、技術を先鋭に磨く選手が一部たりとも劣らない。

この投稿がもう長くなったが、創造の力にはまだ触れていない。だから、この話題を分けて、後日に続けたいと思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: