宮前平の八幡神社

社殿が二つ横並ぶ。後ろからマンションが見下ろす大山街道が現在の東急田園都市線の宮前平駅の前を通るが、駅の向こうには一つの境内に神社が二つ鎮座する。一つは小台稲荷{こだいいなり}神社で、もう一つは八幡神社だ。狭くて険しい石段が商店街のビルの合間を縫って境内に上がるが、境内に至ってもマンションに見下ろされる。都市化の中で生き残る神社の典型例でもあると言えよう。大山街道の案内本によると、村の境界がこの石段の真ん中になったから村の鎮守の神社が並んで一つの境内にあったそうだ。この稲荷神社には代表する朱塗りの鳥居があるが、社殿は小規模で、ちょっと古い物で、彫刻も施された。社殿の上に屋根が設けられ、保存する為の装置に見える。社殿というより、木造の祠だというべきだろうが、少なくとも昇殿してお参りすることは物理的に無理だ。

険しい石段がにるの間を縫って境内に向かう隣にある八幡神社の社殿は新しくて、広い。拝殿の空間もあるので、お祭りの時に昇殿できるようだ。石段の下の鳥居の前にこの改築についての碑が立つ。それによると、この八幡神社は、明治43年(1910)に馬絹{まぎぬ}神社に合祀されたが、後でまた分け宮になったそうだ。いつまた独立したのかは、はっきり書いてないが、戦後になった可能性は高いと思う。即ち明治時代の神社統合令によって地元の人に篤く崇敬された神社がちょっと遠い神社に合祀されたことは多かったが、昔の状況を忘れずに復活を図った人もいたことが分かる。この事実を見つめると、明治維新から戦前の時期を神道の隆盛期として解釈するのは間違っていることが明らかになるのではないか。神道の一部が国家の支援を受けたといえども、他のところが絶対的な弾圧を受けたと言わざるを得ない。だから、神道指令を神道の弾圧ではなく、神道の解放として捉えることもできると私が思ってきた。

神社の改築は、平成7年に行われたそうだが、碑で使用した費用が明記される。一億三千八百万円に上ったそうだ。神社って、やはり高いよね。でも、ここで信仰の根強さも見える。一旦合祀でなくなった神社を復活させるために1995年になっても、地元の人々がこれほどを巨額を奉納したことが神社の地位を良く表すと思う。

碑で馬絹神社の宮司の名前が右に列することから、この神社はまだ馬絹神社の兼務社であることが推測するが、現代の社会の中で栄えている神社のように見える。


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