完璧な人間

昨日北川景子さんがブログで興味深い投稿を公開した。先ずは、自称写真が苦手な人間って、なんでモデルと女優になったのか不思議に思わせる。さらに女優の仕事が大好きなのようだ。矛盾を感じざるを得ないよね。「写真は苦手」には、表の意味を超える意味があるはずだが、本人もちゃんと把握しない可能性もあるので、無縁の私が理解できるはずはないだろう。だから、この点について書かない。

それより、投稿の後半に書いてある次のことに考えさせられたことが書きたいと思う。

人間は欠点があるからこそ人間なのであり、完璧ではないから人間は美しいのだ!

考えることは、「完璧」というのは、どういう意味なのだろうか。実は、北川さんが言うことはよく言われる。「完璧な人間に親しめない」とか、「完璧だ、氷の彫刻のように」など。だが、親しめない人間は本当に完璧なのか。美しさも同じだ。欠点があればこそ最高な美しさに至るとも言われる。

私の今の意見は、まだ未熟なのだが、次の通りだ。

人間には一つの規範はない。だが、基準は沢山ある。いい人間になる為には、この要素もいいし、この要素もいいということ。例えば、いい人間は親切だろう。そして、いい人間が約束をきちんと守る。それに、いい人間は正直だ。この要素から特に典型的に「倫理的」な要素を組み立てたら、「完璧な人間」の模範が作れる。確かにこの模範を調べたら、欠点はないと言う傾向がある。どの要素を指しても、その要素はいいことだからだ。だが、その権現とあったら、冷たくて親しめない人間だと思うだろう。実は、この要素を組み立てたら、理想的な人間にならないからだ。他の倫理と離れた要素も大変重要だからだ。

しかし、その要素のすべてを考えれば、同時に一人の人間に実現することは不可能だ。だから、可能な理想的な人間像を描いたら、欠けるいい要素もあることは不可避。要するに、よく考えたら「これは完璧な人間ではない」と思ってくる。一方、理想的な人間だから、慕う場合もある。

それに、理想的な人間に、わざわざ欠点を入れる必要があるだろう。「この要素からできる範囲で揃って、そして整った人間に、一つか二つの要素に小さな可愛いらしい欠点を付ける」のようなレシピになるだろう。ここで指摘した欠点は、要素の欠点であることは確かだが、人間の欠点ではない。むしろ、人間を理想的にするための必要な要素だ。つまり、要素はそれぞれ完璧である人間は、完璧な人間ではないと述べたいのだ。

だから、理想的な人間を見たら、良い要素には欠点も見つけられるし、持たない好ましい要素も見つけられるので、「人間は、完璧ではないから魅力的だ」と言いたくなる。しかし、要素はないことは、好ましい要素をすべて一人に揃えることは不可であるからだし、要素の欠点は、人間の重要なメリットだ。このような批判できる点がある人は、完璧な人間であるのではないか。