透明性

今回の原発の問題で東電の透明性が欠けると言う批判は多い。確かに透明性は重要なことだし、促進するべきだ。しかし、ちょっと考えたら容易な問題ではないことが分かると思う。

先ずは、危機の真最中の透明性には超えられない問題がある。それは、激変する状況のなかで、そして混乱する状況の中で、誰にも確実な情報はない問題だ。今の原発の危機で、一千万倍の放射線の発表は例になる。それは誤りだったが、発表した時に本当にそうだったと思ったのは疑えない。なぜなら、このような悪い状況を公表する理由は、隠せない事実だと判断下からしかないからだ。悪い方だけではなく、いい方でも誤ることがる。得た情報で安定したように見えても、実は制御室の把握されていない問題のせいで事実と外れた判断になる可能性もある。すぐに事実を見つけても、公表したら批判を浴びることにほかならない。つまり確実な情報をまとめる余裕はない状況で、有意義に透明にすることは極めて難しい。正直に言われても、信憑性は低いからだ。

そして、透明にする為に大衆に公表する役を担う人は必要だ。それは、人材の一部を使うことになる。それだけではない。公表する人に情報を伝達するために努力は必要だ。積極的に公表せずに情報を公開にする方法もあるが、誰かが情報を分析しない限り、有益な透明性にならないだろう。今回の危機でこの問題も見える。放射線の値が公表されても、1ミクロシーベルトの意味が分からない限り、そして検査方法の影響も分からない限り、数値の意味も理解できない。それに、公表された情報の誤解に悪影響がある場合は少なくない。例えば、今回の首都圏での買いだめが被災地への物資到達を送らせたと言われる。

これまでの問題で、危機の真最中に透明性が意味をほぼ失うことに覚悟して、そしてどうやって公開するかを事前に検討したら、乗り越えられる。透明性には自然な制限があるとしても、まだ原則として有益だと私が思う。しかし、最後の問題には、このような解決はない。

それは、透明性がどれほど普及するべきかという問題だ。極端な例にしたら、浴室の透明化には強い反発があるだろう。「公益に触れることに限る」と言えるが、ある行動が公益に触れるかどうか、行動を分析しないと分からない。当人に判断を任せたら、「触れない」と決める場合は極めて多いと簡単に推測する。だが、それを避ける為に公益と必ず関わることはもちろん、公益を損なう場合もあるケースにも透明性を強いる必要がある。だが、「場合もある」というのは、「損なわない場合もある」という意味が含まれるので、不要な透明性を求めることは避けられない。プライバシーや企業の競争力の面から問題になると思える。それに、一画をひいたら、なぜここで聞いたかと尋ねられたら、ちゃんと答えられない。ただの政治的な妥協になる。浴室の透明性に及ばないことはもちろんのことだが、一般の個人の行動に及ぶ可能性がある。例えば、皆の確定申告や納税歴を公開する透明化はあり得なくはない。

個人的に、現在の日本社会より高い透明性が望ましいと思うので、この問題と取り組んだほうがいいと述べたい。しかし、簡単な問題ではないのを言っておきたい。


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