言語の試験の資格

先月の選択にTOEICを批判する記事が載った。批判方法は三つあった。一つは、TOEICを運営する団体の商売のやり方を批判することだった。それは、試験の品質と無関係だと思ってもいい。高級な商品にずるい広告などを使うことは普通だ。もう一つは、TOEICは国際標準ではなくて、ほぼ日本特有の試験であること。それはそうかもしれないが、また、試験の本質とは無関係だ。三つ目の批判は、意味があると思う。

それは、TOEICの試験のなかにリスニングとリディングしかないという批判だ。だから、TOEICで最高得点しても、英語でコミュニケーションできない可能性が残る。この批判に、私が賛成する。発言力を量らない試験は、言語の能力を表すことはできない。実は、私が受かった日本語能力試験一級も同じだった。リディング、リスニング、語彙と文法があったが、スピーキングやライティングはなかった。私の日本語学校がすべての能力を重視したので、私たちにはコミュニケーション能力は或る程度あったが、試験がそれを証明しなかった。

この理由は、理解能力と発言力は根本的に違うからだ。例えば、私がラテン語を勉強したことがあるし、25年ぐらい前にフランス語も勉強した。その結果、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語を或る程度読める。だが、発言力は全くないのは言うまでもない。理解する時に言語が内容の証拠として捉えて、推測する方法もある。ほかの証拠もある可能性は高い。例えば、日本語能力試験で、私の特典は、リスニングで満点だったし、読解は82パーセントだった。一方、語彙・文法の特典は、61パーセントに過ぎなかった。つまり、語彙や文法が分からなかったのに、内容が分かった。(リスニングの場合、運も大変良かった。)

しかし、発言するために、自分の思いを言語にする必要があるので、適切な言葉や語彙が浮かべなかったら、そもそも無理だ。だが、コミュニケーションのために、発言は必要不可欠だ。だから、直接に発言を量らない試験の結果に頼らないほうがいい。

TOEFLとIELTSが発言力を量るのは言うまでもないだろうが、日本特有のいい試験もある。それは英検だ。低級はどうか分からないが、私の生徒さんが受けた準一級と一級はいい試験だ。特に一級に読解とリスニングと語彙が勿論含まれるが、作文もスピーキングも含まれる。そして、スピーキングの試験は、本当にコミュニケーション能力を検査する試験になる。

こういっても、勿論例外もある。前述したラテン語はその一つだろう。もう会話などする必要はない言語だから、昔に著された書物が読めるようになったら充分だ。それ以外、言語の試験には発言力を量るべきだと述べたい。


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