國學院大學のオープンカレッジの神道講座が続いた。今日のテーマは、国学から読む『古事記』だった。所詮
序文として国学や国学
さて、『古事記伝』から宣長の解釈についての内容に移ろう。先ず、日本書紀が混沌な状況から始まって、天地開闢を語るが、古事記が天と地がもう存在する状況で天地初発から始まるそうだ。宣長の解釈は、現状の前を探る内容は外国の思想だと言う。それは本当かどうか分からないが、表面に現れる現状に止まらず、奥義も探ることは私がいいと思う。そして、私は外国人だから、宣長の意見は正しいだろう。
でも、神観念や神道論を取り上げたら、宣長の観念が現代の神道と違うことが明らかになった。先ず、有名なカミの定義が紹介された。私が現代語訳したら、凡そ次の通りだ。古典に登場する神に加えて、神社で祀られる神は勿論、人も、動植物や自然現象も、日常を超える不可思議な力を持つ何でも神という。それは、尊い存在や良い存在にも限らず、卑しい存在も悪い存在も含まれるとも強調する。要するに、神道には全知全能の神はいないのは周知の通りだが、神は災いを齎す存在でもいることは現代に主張されていないような気がする。宣長がこの観念を貫いたようだ。例えば、イザナギの禊のところで、清い目を洗ったら、善神の天照大神が生まれたが汚い鼻を洗ったら悪神のスサノオが出現したと宣長が言った。それに抗議して、スサノオは確かに高天原で狼藉したが、追放されたら八岐大蛇の退治をしたので、善神になったのではないかと宣長が言われたら、撤退しなかったそうだ。八岐大蛇の退治はいいことだったのを認めたものの、その後で大国主神が根の国に行ったときに虐めたことを指摘して、スサノオはずっと悪神だったと主張した。八岐大蛇の話が表現することは、完全はないことだった。悪神でもいいことをする場合もあるし、善神でも悪いことを犯す場合もあると強調した。この世で、いいことしても呪いが恩返しになる場合もあれば、罪を重ねたのに出世する場合もあるとも指摘した。そして、現世には吉凶があって、それがずっと入れ替わるとも言ったそうだ。ただし、最後に善が勝つとも書いた。
スサノオの場合を考えたら、中世には祓いを受けたので善神になったと言ったそうだが、宣長が同意しなかった。しかし、私が思うのは、神話が事実を伝えないので、合致しない解釈を両立してもいい。一方、中世の解釈で、如何に悪神になっても、取り戻せるとの解釈で、人間の立ち直りや改心の可能性を指摘できる。一方、宣長の解釈に従えば、正確が悪くても、誰でも社会に貢献できることを指摘する。だが、これは私の解釈に過ぎない。
ところで、西岡先生がもう一つの点を指摘した。天照大神とスサノオの間の誓いで天皇の先祖神が生まれたので、宣長の解釈で天皇の先祖には善神も悪神もいると言える。
そして、ちょっと宣長の生死観について書く。宣長が言うのは、死んだら人間の魂が皆黄泉の国に行ってしまうことだ。黄泉の国は確かにいいところではないので、死は何ことより悲しいと主張して、仏教や儒教に強く反発したそうだ。これも、神道が現世に焦点を置くことを象徴するだろう。
このように神道について考えたら、私の神道観念にも反映されると思う。