目立つこと

先日の運動会で私が親リレーに参加して、幼稚園の園児や親の合計千人以上の前で下手に走ったり、体操したりした。かっこうよく見えた筈はないのに、全然平気だった。ゆり子がちょっとびっくりしたし、確かに前は或る程度人見知りだったので、なぜ平気になったかは問われる。原因は二つあると思う。

一つ目は役割があることに関連する。つまり、団体の構成の中で指定された役割があったら、それとも一般的にするべきことをしたら、目立つも平気だ。これは十代のころから続いてきた状況だと思う。個人として人に声をかけることは苦手だと言っても、調査などの役割を担ったら簡単にできたこととか、18歳で学校の集会で400人以上の前に発表したことなどは事例だ。だから、運動会で正式な役割を担ったので、問題はなかった。

もう一つは、日本に住む経験だ。私は白人で187センチぐらいの身長を持っているので、日本でそもそも目立つ。電車に乗って、静かに本を読んだら、目立つ。お店で普通に買い物をしたら、目立つ。散歩に行ったら、目立つ。(大山の登山で、売店の方が下りで「上がりも歩きましたね」と言ったが、上がりで売店で買い物したことはなかった。要するに私がどこから上がったかを注目して覚えたことだった。それは、通ることでも目立つからだろう。)だから、目立つことに慣れた。だが、それだけではない。

毎日数百人か数千人の前で目立てば、すぐに気づくことがある。それは、殆どの人は全く無関心であることだ。如何に目立っても、私の存在は殆どの人には軽いことだから、その場で気づいても、少なくとも翌日に覚えないはずだ。私を評価する為に行為を見分けて考える人は極めて少ない。「あっ、外人だ」とふっと思って、そして自分のことに夢中になる人は多い。話せば、「あっ、日本語の上手な外人だ」と思っていただけたらいいが、それは忘れる寸前のことだ。つまり、「見ている人が私をどう評価するか」と聞いたら、「そうしない」と答えるべき。運動会も同じだ。ほかの親より、わが子を見る人だ。だから、そのようなことについて心配せず、自分がやるべきだと思うことをやってもいいことを実感した。

人の関心が集めたかったら、目立つことが足りない。何か興味をひくことをして目立つ必要がある。人の目の前で登場しても、存在は軽いのは都市の事実だ。


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コメント

“目立つこと” への2件のフィードバック

  1. 空のアバター

    これはおもしろい洞察ですね。

  2. チャート・デイビッドのアバター
    チャート・デイビッド

    @空様、いつもコメントをありがとうございます。