意見の多様性

先日の男女平等についての投稿でいつもコメントを書き込めてくださる空さんのご意見と私の意見がちょっと違うことが明らかになった。正反対ではないが、一方些細な相違点ではない。具体的な政策に反省される相違点だと思える。

このような状況はいいと思う。統一しない方が人間的にも社会的にもいいと私が思う。だから、禁止することも義務づけることも最低限に抑えて、揶揄などで同意できない意見を払拭しようとしない方針はいい。主な理由は以下の通りだ。

先ず、周知の通り、人間が間違える。全く気づかずに間違える場合も少なくない。だから、自分の意見ではなく、他の意見が正しい可能性は否めないので、意見の多様性を歓迎するべきだ。そして、異なる意見を考えたら、自分の意見を磨くこともできる。結局自分の意見が変わらなくても、よりはっきり分かるようになったり、詳細のところが分かってくるからだ。これも、意見を実現する時に大変役に立つことだ。

この二つの理由は、150年前のイギリスの哲学者のJ.S.Millが『On Liberty』(日本語は『自由論』だろう)で唱えた理由だから、もう常識になっただろう。

それに、また二つの理由がある。

一つは、世界の多様性だ。私の意見が私の周りの状況にぴったりであるとしても、別の国の状況に合わない可能性はまだある。そんなに遠く行く必要もないだろう。経済的な状況が異なったら、別な意見が相応しくなるかもしれない。もちろん、状況を完全に理解すれば、適切な政策が違うことも分かるが、世界の状況はあまりにも複雑だから、状況を完全に分かる場合は極めて少ない。だから、相応しくなる理由が見えないからといって、理由はないとは限らない。

もう一つは、世界の複雑さの為、一人の人間が状況を把握して、妥当な計画を企てることはできない。だから様々な人に様々な計画を実現してもらって、どちらが実際に成功するかを見るしかない。これに、詳細が異なる計画も根本的に異なる計画も入っている。つまり、意見だけではなく、間違っていると思う計画も許すべきだ。勿論、反論してもいい、いや、反論するべきな場合もある。だが、統一ではないと何もできない場合を除いて、結局多様性を促進したほうがいいと思う。

だから、丁寧に議論することはいいことだし、相手を説得しなくても失敗だと思うべきではない。これを考えたら、現在のブログなどが多発する現象を歓迎するしかない。


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