『神皇正統記』:神道を知る講座VII〜第5回

今日の神道講座で嵐先生が北畠親房{きたばたけちかふさ}の『神皇正統記{じんのうしょうとうき}』を紹介した。この書物が興国4年(1343)に著されて、南北朝時代だった。北畠親房が南朝に属したので、北朝を認めなかった。当時の日本では内乱もあったし、仏教的な末法思想で世界が終わりに走ったとも思われたし、百代思想で天皇が100代で終わるという思想もあった。(当時、90代後半だったので、間もなくのことだった。)この混乱の中で、北畠親房が天皇家の正当性を強調する本を著したそうだ。

日本の思想史にはかなり重要な位置を占める書物だそうだ。特に、水戸学に強い影響を与えて、国学の基礎にもなった。国学が近代日本の体制に大きな影響を与えたことから、戦前の日本のルーツの一つであるとも言えるだろう。学問から見れば、学問と言えば中国という日本の思想から離脱して、日本の発想にも価値があると主張する流れの一部として重大であるとも言われる。

著者によると、参考本を見ずに著したそうだ。今そう言えば、誰も本を信頼しないが、当時に著者の名誉になったそうだ。嵐先生によると、本当にそうだったかもしれないそうだ。要するに書く前に北畠親房が古典を深く勉強したので、ほぼ暗記にできた。このような本を書き始めたら、必要な内容を思い出すことができた可能性もある。と言っても、日本書紀だけではなく、仏教のお経も儒教の儒典も引用したので、かなりな学問だったと言わざるを得ない。こっそりと参考本を見たとしても、学者の資格が欠けない。

講義で神皇正統記の最初のところを読んでもらって、解釈もいただいた。最初の文は

大日本{やまと}{}神國{かみのくに}{なり}

日本を「やまと」と読むのは、日本の国の名前を論じるからだ。中国の文献で初めて出てくる日本の名前は「倭」だが、その漢字の意味は良くない。北畠親房によると、中国に行った日本人が「どこの国ですか」と聞かれたら「我が国」と答えたので、中国で「倭」と名付けたそうだが、嵐先生が頷けないそうだ。それはそれで、日本書紀を制作する時に新しい名称を選んで、「日本」にした。だが、日本書紀で「日本」を「やまと」で読む場合は少なくないそうだ。たとえば、ヤマトタケルの名前は、「日本武」と表記する。国内で「大八洲{おおやしま}」と名付けたそうだが、奈良時代半ばには「大和{やまと}」の表記が広がったそうだ。

国名を論じたら、日本には神の子孫が天皇になるが、他の国にはないと言う。これは天皇中心主義だが、本当にそうだった可能性もあるそうだ。中国とインドでは、神は神で、人は人だから、人は神の子孫であると主張する伝統はあまりないそうだ。つまり北畠親房が知った限りこれは本当に日本の特徴だったかもしれない。

講義の最初に活字の単行本を見せたので、やはり短い書物ではないが、読むべきなのではないかと思ってきた。90分で背景の内容のごく一部を紹介してもらっても、理解できたとは全く言えない。勉強すべきことはまだ多いよね。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: