国家の役割

最近国家の役割について考えている。まだ考え終わっていないが、今の考えの概ねが書きたいと思う。具体的に書いたら、よりはっきりになって、私の考察に貢献する。つまり、この投稿で説得するより、正確に私の考えを伝えようとする。

根元は、自由だ。理由は二つある。先ず、人間の自由そのものはいいと思う。自由を増したら、それでいいことしたと言える。もう一つの理由は、一つの政府が国全体の詳細を監督することはできないからだ。国は複雑過ぎるし、大き過ぎるからだ。だから、住民一人ひとりに自由を与えて、その小規模で問題と挑戦して、多様な解決方法を試して、試行錯誤で国益を増す。失敗する人もいるが、小規模だから失敗の影響は限られる。成功する人もいるので、成功した方法を真似して、他の人も成功する。(真似て成功しない場合もあるが、実は少数派だと思う。例えば、農耕方法が成功に終わったら、真似したら成功に終わる可能性は高い。)一方、政府が失敗すれば、国全体が窮地に陥る。確かに国が成功すればいい結果が期待できるが、歴史の例を見たら、成功する為に国が住民の自由を保護したと言った方がいいのではないか。

これまで右翼のように聞こえるだろう。アメリカの右翼が「連邦政府が関与しないほうがいい」と言うので、同じなのではないか。基本的に同じだが、自由を保護する為に必要となる行動について相違点があると思う。

先ずは、自由を保護するために拘束する必要がある矛盾は否めない。アメリカで自由市場を唱える人でも、契約に違反すれば裁判で賠償が命じられることを掲げる。同じように、盗難などを犯罪にする必要がある。つまり、規則はない状態で、自由にならない。弱肉強食は、自由ではない。だから、自由を保護する為に政府がすることは意外に多いと思う。しかし、目的は、住民に自分の生き方を選ぶ機会と力を与えることに過ぎない。

具体的に言えば、先ず防衛と外交は重要だ。防衛は明らかだろう。国が占領されたら、国民の自由が制限される。程度が占領する国によることは確かだが、アメリカでも制限になるので、避けるべきだ。外交もこの最悪な結果を避ける為に貢献するが、それに国民が外国の舞台にも活躍する可能性を確保するために必要だ。自由の要素の一つは、海外で活動する機会だからだ。

国内を考えたら、法律で自由を確保することは重要だ。例えば、言論の自由など。だが、それだけではない。一つで監督されたら問題が起きるが、その一つは民間の会社でも、同じだ。だから、会社の影響を抑える必要もある。そして、試行錯誤であれば、失敗する場合もあるので、失敗した人に立ち直る機会を確保する必要もある。そのために社会福祉などが必要不可欠だ。偶然の問題と戦う力も重要だから、健康保険も政府の範囲に入ると思う。もう左翼に聞こえるよね。

だが、ここでも違う。平等を目指すべきではない。平等を確保する為に、細かく監督しなければならないので、政府がそうしない方がいい。運が悪い人と運がいい人の間に差が開くことを予想できるが、それは仕方がない。運が悪くてももう一度頑張る機会を確保すれば、それは政府ができることの全てだと思う。同じように、努力する人と怠け者の間に、才能がある人と才能のない人の間に差が開くと思う。自由を確保するために財政は必要だから、富裕層の税金が上がることを予測できるし、会社の影響を抑えるので大変お金持ちな経営者が出てこないとも思えるので、格差が副作用として縮む可能性があるが、縮まなくてもいい。それは目標ではない。このような社会的な結果を予想する難しさこそ、政府に自由確保の役割を与える理由だ。

自由確保以外のやるべきことは沢山あるのは否みたくない。しかし、国家レベルでやらない方がいいと主張したい。自治体で行ったらいいと思うが、それは別なテーマだから、この投稿をこれで終える。

「国家の役割」への1件のフィードバック

  1. これは非常に大きなテーマですね。
    私も自分のブログで何度が取り上げたことがあります。

    国家をどう見るか
    http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/5beb8198454d78f0c6128d57fa6196a1

    国家の共通項
    http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/ba40a5ab9e54c42851041152d2d550b5

    国家
    http://blog.goo.ne.jp/kentanakachan/e/c52c6caeec83bc2848d896c4966b39c8

    (これらは、わりに英語の文献を参照にしています)
    など

    >国が占領されたら、国民の自由が制限される。程度が占領する国によることは確かだが、アメリカでも制限になるので、避けるべきだ。

    →これは大変面白い視点ですね。
    現在の在日米軍についてはどのように考えておられるのか、興味があるところです。

    >平等を目指すべきではない・・・・・

    →一部では格差そのものを目の敵にしているような人がいますが、それは私も反対ですね。格差そのものを目の敵にして、平等を実現したとしても、大半の人が不自由で貧乏になってしまう平等な状態では、元も子もない。

    失業したとき、病気になったとき、あるいは、老後に、最低限の生活保障をする、そうした人々に(再び)社会に参加して活躍する機会を与える環境をつくる、ということが大事なのだろう、と思っています。

    ネオリベ(neo liberalism)に対する批判として、ネオリベを採用した社会では、格差が拡大する、ということも言われることがありますが、格差が拡大するのは、自由競争のせいではなく、政官癒着、官民癒着により、不公平な利益が一部の人に蓄積していくのだ、とも言われる。ぼくは、どうも、後者なのではないか、とも思っている。

    格差ということで、もう一つ考えなくてはならないのは、国家間の格差で、ぼくなんか日本で貧乏生活をしていますが、最貧国の一般人より、気楽な生活をしているのだろう、と思う。そうした格差はやはり問題があるのではないか、と思う。

    John Rawls なんかが、国内的には格差原理(difference principle)を適用したが、国際的には言わなかったのをたしか、Peter Singer なんか疑問を呈していたように思います。あの原理そのものも、議論があるところでしょうが、国内的にも国際的にも、格差を目の当たりにしたときの、道徳的直観としては、なにか非常に人の心をうつものがある。

    他の国家にどう応じていくかーーそれは外交の一種でしょうけどーーー国家の役割を国民の自由・利益の擁護だけに限定するか、あるいは、国境を越えた人々に対してまで何らかの役割を果たすべきか、果たすとしてどの程度果たすべきか、も国家の役割論にとっては重要なテーマであろう、と思います。

    なんとなくまとまりのないコメントですけど、チャートさんの投稿を読んだ、拙い感想文です。

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