真由喜の素晴らしい感謝

昨日も通常通り感謝する事をした。先日、真由喜が「何もない」と言ってしまった事を投稿で書いたけれども、昨日は違った。

真由喜は大変ご機嫌だったので、積極的に私とゆり子と一緒に神棚の前に並んだ。最近いつも抱っこされながら感謝することをしたが、昨日立ちながら、自立した子供として参加した。そして、二拝をして、私が超省略の祝詞を奏上した。(それは、「諸々の大神達、守り賜い幸え賜え」という表現だ。)した途端、真由喜が言い出した。

「今日感謝する事は、幼稚園で沢山遊んだことと、テレビを見たことと、今お風呂に入る事でわくわく、嬉しい、ことです!」

私もゆり子も感動した。親ではないなら些細な事であろうが、真由喜が自分の出来事も予定もちゃんと頭の中で整理して、そして積極的に楽しい事に着いて感謝を表現することは素晴らしかった。これで、真由喜がいい思い出を作ると思うし、家族の絆を毎日強める。それに、精神的に生活のいい点を見つめて、感謝の心を忘れない。五分もかからない儀式だが、本当にお勧めだ。

この場合ではないと、いつ?

今週の『神社新報』の表紙に写真が掲載された。内宮で神宮大麻暦頒布始祭で神社本庁の統理が神宮の大宮司から神宮大麻と暦を授かる。大宮司は勿論神職の装束を着ている(真っ白の所謂「浄衣」のように見える)が、一方統理が洋服を着ている。

和服は適切である場合を想像するように言われたら、神宮での重要な祭祀がすぐに相応しい場合として思い浮かぶが、そうではないようだ。でも、なぜかと聞かれたら、正直に答えにくい。仮説を立てば、神宮大麻頒布が明治時代に始まった(1872年だったそうだ)ので、明治時代の廃和毀倭の伝統を受け継ごうとしているだろうと思うしかない。(創作四字熟語だ。神仏分離が過激になったら、廃仏毀釈という表現から作った。)しかし、古事記から流れ下がる清流を汲むと主張する神社界で、なぜ明治時代をそれほど重んじるかも分かりにくい。男性の和装は着慣れなくても着苦しくないので、それが理由にならない。現代人の日常生活との親しみをアピールするつもりなら、選んだ洋服で的外れになる。それは、超フォーマルな所謂モーニングスーツだからだ。イギリスでもう着られない服装だから、馴染まない。統理が和装にしたら、祭員と混沌することを恐れるかもしれないが、浄衣と男性の黒い羽織・袴を見間違える可能性は極めて少ないだろう。

実は、一般の神社祭祀の参列の指導も同じだ。服装として、スーツは指定される。和装は、可能性としても挙げられない。確かに挙げても着る人は少ないと思うが、提案しなかったら思いつく人は殆どいないだろう。日本の独自の文化を推進したかったら、和装を正式に相応しい服装として認めて、一番荘厳な祭祀で着たほうがいいと思う。

林羅山の『本朝神社考』〜神道を知る講座VII第七回

夏と一緒に大学の夏休みもいよいよ終わったので、國學院大学のオープンカレッジが再開した。また神社の古典を読む講座が続くが、今回は林羅山{はやしらざん}の『本朝神社考{ほんちょうじんじゃこう}と言う本が課題になった。

講義の最初は、林羅山の紹介になった。1582年に京都で生まれ、13歳から才能が認められたそうだ。お寺で勉強したが、出家しなかったそうだ。逆に、日本の土着の伝統を見て、仏教に反発するようになったようだ。1603年に『論語集注{ろんごしっちゅう}』を公開講義して、論語を家業にした家に訴えられたが、徳川家康がすぐに訴訟を却下したそうだ。家康が実力で天下の覇権を握ったので、家柄の独占を認めようとしなかっただろうと西岡先生が推測した。1604年、藤原惺窩{ふじわらのせいか}という冷泉家の人と知り合って、その斡旋で家康に使えるようになったという。しかし、その役割は、前例ならお坊さんに果たされたので、羅山に髪を剃って、「道春{どうしゅん}」という名前と改名することになった。「親から授かった髪を剃るのは不孝そのものだ」との批判を儒学社から受けたそうだが、幕府に仕えるし、他の藩主によく頼まれた羅山は、あまり気にしなかっただろう。

神道の古典に当たる『本朝神社考』の刊行年は不明だが、1638年から1645年までの間なのではないかと推測されるそうだ。三冊六巻の構造で、一冊目は二十二社の神社について、二冊目は他の神社を挙げて、そして三冊目に様々の伝承を披露するそうだ。現代の『神道大系』の中に納められた頁数を見れば、羅山がどこに重点を置いたかが或る程度分かるので、西岡先生が項目別で頁数を表す表を用意してくれた。表を見れば、伊勢の神宮には頁数は多いのは当たり前だが、日吉大社にも比較的に多いし、北野天満宮にも10頁以上割いたようだ。そして、厩戸皇子{うまやどのおうじ}について、即ち聖徳太子について、6頁以上になるそうだ。しかし、聖徳太子に頁数が多いと言うのは、聖徳太子を評価するという意味ではない。

この古典の神道の歴史の中で重要な意見は、仏教に反対する立場だと言える。江戸時代初頭当時に、神仏習合が一般だったが、羅山がこの状態を強く批判した。西岡先生が『本朝神社考』から羅山の意見を引用して、紹介した。序に、羅山が当時の状況を紹介して、古典に基づいて批判した。古事記や日本書紀や旧事紀(即ち先代旧事本紀という文献で、当時に重んじられたが、江戸時代に無視されるようになった)を見たら、そもそも日本の神様と仏は別々だったことだわかると主張して、神仏習合を当然な事として受け入れるのは間違いだと述べた。そして、吉田神社についての項目で、吉田兼倶を厳しく批判した。兼倶が著した書籍に両部神道の書籍などから引用されたところを自分の考えとして偽ったことを指摘して、本当の神道に叛いたと訴えた。日吉大社の項目で両部神道を強く批判して、仏教を「夷狄の法」と呼んだので、仏教側から強い反発を招いた。西岡先生によると、江戸時代末まで仏教家からの反論が出版されたそうだ。

羅山が外国から来た仏教を神道から排除しようとしたが、儒家で儒教を重んじた。しかし、儒教も外国の思想であることは言うまでもない。時間が下がれば、外国の思想を排除すれば、徹底するべきだと主張する学派が発生したが、それは国学だった。だから、羅山の著書で神仏分離の源泉が見えると言っても過言ではないだろう。明治維新から150年の神道の歴史を見れば、かなり重要な概念を提供したと言えよう。

神道の研究に、仏教徒の関係はよく問われる。神道が独立した宗教として存在したかどうかは疑われるし、論文で明治維新以前の状況について「神道」の言葉を慎む学者は大半だろう。神仏分離の根を江戸時代初頭に遡れば、全ては明治政府の創作だったとの主張は認められない。少なくとも、300年前に神と仏を分離するべきだと思う人がいたことは証明された。

また興味深い講義だったので、次回も楽しみにしている。

日本舞踊

今日三人で日本舞踊の教室を見学しに行ってきた。見学したのは、藤間流の日本舞踊教室で、高津にある稽古場だった。私たちがいた間に、小学生の女の子がお稽古をしたので、子供を教える様子が見えた。(もちろん、師匠がこの時間帯をわざと提案した。)マンツーマンの教室だから、真由喜のような幼児でもできると思うし、遊びの感覚で習うと先生が言ったが、確かにそうだ。真由喜の反応を見たが、15分〜20分ぐらいじっとお稽古を見つめたし、一回舞踊の手振りを真似したので、興味はなくはない。30分が経ったら、外に出てシャボン玉で遊びたいと言い出したが、4歳で15分のお稽古で充分ではないかと思う。それに、先生によると稽古場以外に練習しない方が言いそうだ。なぜなら、一人での練習で変な振付けが癖になったら、直すのは大変だからだそうだ。なるほどね。模範はないなら、間違えることがある。このブログの日本語も例になっている。

私は前向きだ。真由喜に伝統文化に触れさせたいし、真由喜は踊りなどは大好きなので、適切な方法なのではないかと思う。そして、従妹達は日本舞踊をやっていないので、競争にもならない。マンツーマンの形で、教室の他の子と比べることも少なくなるので、真由喜が自分也に学べると思う。問題は、週二回に行かせられるかどうかだ。ゆり子が一回できるが、私がもう一回連れて行けるかどうかが問題だ。確かに上達を期待する為に、週二回を目指した方がいいし、月謝制だから、一ヶ月でなるべく多く行かせたい。しかし、レッスンの合間に時間を開けても、木曜日ならゆり子が真由喜の面倒を見られるようになるのは5時半ぐらいだそうだから、かなりの「休憩」になってしまう。

それにしても、私の今の気持ちは、一旦真由喜をやらせて、様子を見ることだ。音楽などなら、幼い頃から慣れた方がいいし。