自分の矛盾に気づき

今年から『神社新報』を読むことになった。『神社新報』というのは、「神社界唯一の新聞」だとホームページで述べられるので、神道の研究の一環として読んでいることがすぐに分かってもらうだろう。だが、顕著になるのは新聞の立場は保守的で、領土問題や国旗の扱いを重視することだ。そういう風に指摘すれば、靖国神社を重視することも想像し難くないだろうが、この点で神道との関わりは明らかだ。靖国神社は神社だから、擁立だの、対立だの、取り扱うのは当然だ。一方、ロウ度問題や国旗をずっと不思議に思った。問題になる領土は、明治時代に日本に編入された島が殆どだし(竹島は例外としても、北方領土と尖閣諸島はそうだと思う)、国旗は明治期に西洋を真似する為に導入された習慣だ。神道は日本の土着の伝統だとすれば、国旗とは何の関係があるのかと訊いても不思議ではない。

しかし、今週の部の表紙に教育関係の大会を紹介する記事がある。大会で被災地の教育の問題とか、自治体の間の教育差とか、教科書の内容などの問題が取り上げられた。これで、私には違和感はなかったが、読み終わったらぱっと気づいた。小学校の人数は、神道とどのような関係があるのかと訊いても不思議ではない。

小学校は、確かに寺子屋の要素も受け継がれたが西洋の教育制度の一部として日本に導入されたし、神話や祭を見たら、教育が登場しない。天神信仰は例外だが、それでもクラスの人数や教育行政の制度と疎い。ただただ私の神道概念で産霊の解釈のなかに教育が編入されたから違和感を全く感じない。私の神道概念の正当性を強調したければ、領土問題や国旗を中枢に据える神道概念の正当性を否定できない。もちろん、その概念より自分の概念を推薦したり促進したりしてもいいが、『神社新報』で取り上げられた概念を神道の概念として批判する根拠はないと思ってきた。社会の概念や宗教の役割の立場から批判してもいいと思うし、本当に神道が他の要素に焦点を置くべきだと思うが、妥当な神道概念として認めなければならない。

これは確かにちょっと変な言い方だ。神道界とほぼ無関係な私が神社本庁の立場を裁くなど、どういうことか、と。でも、学者の魂でそのような傾向は避けられ難い。どうしても、これがこの概念を歪めると思ってくることは当然だ。でも、神社本庁の神道は歪んだ神道ではないことが明らかになった。それでも、私の独自な神道概念も歪んでいないと信じて、別な神の道を歩む。


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