窓の外に台風が暴れている。暴風で大雨のせいで窓から殆ど見えない。幼稚園はお休みだから、真由喜がいるし、ゆり子も真由喜の面倒を見る為に仕事を休んだし、今夜のレッスンもキャンセルされた。先ほどゆり子が「避難しなくてもいい?」と聞いたが、丘の上の三階だから、避難する方が危ないので、しない。ゆり子によるとこのような本格的な台風は10年ぶりだそうだが、私はそう思わない。自然の畏敬を感じさせると同時に、自然の脅威も実感する。今朝のニュースによると犠牲者が確認されたそうだが、ここはそれほどではないようだ。
それに台風12号はまだ最近の出来事だし、東日本大震災の覚えはまだ新しい。今週の『神社新報』の論説で天災との共存が論じられる。人災と違い、予防できないけれども、被害を最低限に抑える為の努力は必要だという。この努力の中に「治山治川」が挙げられるが、それはイギリスや西洋の大自然との共存の概念と違う。イギリスで、大自然と共存することは、大自然をそのまま保存することを指すことは多い。イギリスでそうしても著しい損害はない筈だ。川や天気に襲われることはほとんどないからだが、日本は明らかに違う。日本で、自然に手を出すことは、便宜をはかる為に、それとも利益を得る為にだけではなく、命さえ保護する為だ。
この相違点で、エコはもちろん、神道も西洋から誤解されるだろうと思ってきた。エコの面で、日本で殆どの河川がコンクリートで縛られるし、山林へも手をよ下すので、生態系を保存しようとする意識すらないと言われる。一方、神道は自然崇拝の宗教であるくせに、大規模な工事を維持したり、人工自然に抵抗しないので、本当に自然崇拝なのかと言う疑問を抱く西洋人は少なくない。(まぁ、正直に言えば質問に思いつくように神道が理解する西洋人は既に少ないので、客観的に数えれば、少ないが、割合として少なくない。)
しかし、これは日本の環境に配慮していない感覚なのではないか。日本の大自然が人間を脅かすので、共存というのは、挑戦の要素も持たなければならない。だからダムを造ることは、大自然との共存の一環になる。川の氾濫を防ぐ為のコンクリートの堤防も共存の証拠だ。イギリスで、人間の方が強いので、「共存」といえば、生態系の存在を許すことだと捉えられる一方、日本で自然の方が強いので、「共存」と言えば、人間が生き残れるような環境を整えることだと言っても過言ではないだろう。でも、産業革命や科学革命のお蔭で、人類の力が増したので、日本でも人間が大自然を脅かすようになった。これも視野に入れたら、生態系の持続にも配慮するべきようになったのは、一般にも認めてきたと思う。
日本では、人間と自然が均衡な関係に立つので、共存の本意を考慮しなければならない。