林羅山の『本朝神社考』〜神道を知る講座VII第七回

夏と一緒に大学の夏休みもいよいよ終わったので、國學院大学のオープンカレッジが再開した。また神社の古典を読む講座が続くが、今回は林羅山{はやしらざん}の『本朝神社考{ほんちょうじんじゃこう}と言う本が課題になった。

講義の最初は、林羅山の紹介になった。1582年に京都で生まれ、13歳から才能が認められたそうだ。お寺で勉強したが、出家しなかったそうだ。逆に、日本の土着の伝統を見て、仏教に反発するようになったようだ。1603年に『論語集注{ろんごしっちゅう}』を公開講義して、論語を家業にした家に訴えられたが、徳川家康がすぐに訴訟を却下したそうだ。家康が実力で天下の覇権を握ったので、家柄の独占を認めようとしなかっただろうと西岡先生が推測した。1604年、藤原惺窩{ふじわらのせいか}という冷泉家の人と知り合って、その斡旋で家康に使えるようになったという。しかし、その役割は、前例ならお坊さんに果たされたので、羅山に髪を剃って、「道春{どうしゅん}」という名前と改名することになった。「親から授かった髪を剃るのは不孝そのものだ」との批判を儒学社から受けたそうだが、幕府に仕えるし、他の藩主によく頼まれた羅山は、あまり気にしなかっただろう。

神道の古典に当たる『本朝神社考』の刊行年は不明だが、1638年から1645年までの間なのではないかと推測されるそうだ。三冊六巻の構造で、一冊目は二十二社の神社について、二冊目は他の神社を挙げて、そして三冊目に様々の伝承を披露するそうだ。現代の『神道大系』の中に納められた頁数を見れば、羅山がどこに重点を置いたかが或る程度分かるので、西岡先生が項目別で頁数を表す表を用意してくれた。表を見れば、伊勢の神宮には頁数は多いのは当たり前だが、日吉大社にも比較的に多いし、北野天満宮にも10頁以上割いたようだ。そして、厩戸皇子{うまやどのおうじ}について、即ち聖徳太子について、6頁以上になるそうだ。しかし、聖徳太子に頁数が多いと言うのは、聖徳太子を評価するという意味ではない。

この古典の神道の歴史の中で重要な意見は、仏教に反対する立場だと言える。江戸時代初頭当時に、神仏習合が一般だったが、羅山がこの状態を強く批判した。西岡先生が『本朝神社考』から羅山の意見を引用して、紹介した。序に、羅山が当時の状況を紹介して、古典に基づいて批判した。古事記や日本書紀や旧事紀(即ち先代旧事本紀という文献で、当時に重んじられたが、江戸時代に無視されるようになった)を見たら、そもそも日本の神様と仏は別々だったことだわかると主張して、神仏習合を当然な事として受け入れるのは間違いだと述べた。そして、吉田神社についての項目で、吉田兼倶を厳しく批判した。兼倶が著した書籍に両部神道の書籍などから引用されたところを自分の考えとして偽ったことを指摘して、本当の神道に叛いたと訴えた。日吉大社の項目で両部神道を強く批判して、仏教を「夷狄の法」と呼んだので、仏教側から強い反発を招いた。西岡先生によると、江戸時代末まで仏教家からの反論が出版されたそうだ。

羅山が外国から来た仏教を神道から排除しようとしたが、儒家で儒教を重んじた。しかし、儒教も外国の思想であることは言うまでもない。時間が下がれば、外国の思想を排除すれば、徹底するべきだと主張する学派が発生したが、それは国学だった。だから、羅山の著書で神仏分離の源泉が見えると言っても過言ではないだろう。明治維新から150年の神道の歴史を見れば、かなり重要な概念を提供したと言えよう。

神道の研究に、仏教徒の関係はよく問われる。神道が独立した宗教として存在したかどうかは疑われるし、論文で明治維新以前の状況について「神道」の言葉を慎む学者は大半だろう。神仏分離の根を江戸時代初頭に遡れば、全ては明治政府の創作だったとの主張は認められない。少なくとも、300年前に神と仏を分離するべきだと思う人がいたことは証明された。

また興味深い講義だったので、次回も楽しみにしている。