この場合ではないと、いつ?

今週の『神社新報』の表紙に写真が掲載された。内宮で神宮大麻暦頒布始祭で神社本庁の統理が神宮の大宮司から神宮大麻と暦を授かる。大宮司は勿論神職の装束を着ている(真っ白の所謂「浄衣」のように見える)が、一方統理が洋服を着ている。

和服は適切である場合を想像するように言われたら、神宮での重要な祭祀がすぐに相応しい場合として思い浮かぶが、そうではないようだ。でも、なぜかと聞かれたら、正直に答えにくい。仮説を立てば、神宮大麻頒布が明治時代に始まった(1872年だったそうだ)ので、明治時代の廃和毀倭の伝統を受け継ごうとしているだろうと思うしかない。(創作四字熟語だ。神仏分離が過激になったら、廃仏毀釈という表現から作った。)しかし、古事記から流れ下がる清流を汲むと主張する神社界で、なぜ明治時代をそれほど重んじるかも分かりにくい。男性の和装は着慣れなくても着苦しくないので、それが理由にならない。現代人の日常生活との親しみをアピールするつもりなら、選んだ洋服で的外れになる。それは、超フォーマルな所謂モーニングスーツだからだ。イギリスでもう着られない服装だから、馴染まない。統理が和装にしたら、祭員と混沌することを恐れるかもしれないが、浄衣と男性の黒い羽織・袴を見間違える可能性は極めて少ないだろう。

実は、一般の神社祭祀の参列の指導も同じだ。服装として、スーツは指定される。和装は、可能性としても挙げられない。確かに挙げても着る人は少ないと思うが、提案しなかったら思いつく人は殆どいないだろう。日本の独自の文化を推進したかったら、和装を正式に相応しい服装として認めて、一番荘厳な祭祀で着たほうがいいと思う。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: