賀茂真淵の『国意考』〜神道を知る講座7第8回

今日をとても忙しい日だと思ったが、帰ったらレッスンのキャンセルが入っていたので、ちょっと余裕ができた。ちょっと呆然としたが、時間を無駄にしないように投稿を書くことにした。

今朝國學院大學のオーペンカレッジの講義が開かれ、課題は賀茂真淵{かものまぶち}の『国意考{こくいこう}』だった。これはあまり有名な書籍ではないようだが、賀茂真淵は国学の四大人{しうし}の一人だ。二代目で、荷田春満{かだのあずままろ}の弟子で、本居宣長{もとおりのりまが}の先生だった。今日の講師の松本先生によると、真淵の本名は岡部三四{おかべそうし}だったそうだ。三四の名前は、3月4日に生まれたことから取られたそうだが、1697年に生まれて1769年に死去した人だった。学名の「賀茂」は、祖先とした賀茂神社の社家に因んだし、「真」はいい意味で選ばれ、「淵」は出身地の遠江国の敷智{ふち}群から取られたそうだ。真淵が将軍吉宗の次男の田安宗武{たやすむねたけ}の「和学御用」になって、かなりの影響力を持つようになった。

ところで、「和学」は、明治時代まで「国学」より一般的に使用されたそうだが、松本先生によると國學院大學の創設によって「国学」が使われるようになった可能性があるそうだ。ようするに、大学は学問の名前を取ったではなく、学問が大学の名前を取ったということだ。本当にそうだったらちょっと面白い。

さて、『国意考』の内容については本題だった。契機は、儒学社の太宰春台{だざいしゅんだい}が著した『弁道書{べんどうしょ}』だったそうだ。その本は、儒学の立場から、古代は日本には「道」はなかったと主張したという。「道」というのは、勿論道路ではなく、道徳などの「道」だから、中国から道徳を輸入する必要があった国だったとのことだ。

真淵の反発は強かったが、公刊しなかった。著者の没後、弟子によって出版されたというが、それは儒学に拠る幕府の批判を免れるためだっただろう。

真淵が質問をした。儒学が国の治安を保護すれば、中国の歴史を見たら、ずっと平穏だった筈だと主張して、周知の中国史を語って、そうではなかった事実を強調した。それに、日本の史書を見たら、儒教が輸入する前に神武天皇が一旦朝廷を固めたら、争乱はなかったとも述べた。しかし、儒教が入ったら、壬申の乱を始め、沢山の内乱などが起こったと指摘した。だから、「儒の道こそ、其国をみだすのみ」と結論つけた。

それに対して、古代日本には「道」はなかったことを認めた。ただし、それをいいこととして讃えた。きめ細かい「道」があれば、人の心が乱れるといい、むしろ「{おのずか}らの道」、即ち神道、を歩んだら、人と人が円滑に支え合うと主張した。ここで、神道の本質には言葉はないという概念が見える。

総括すれば、林羅山{はやしらざん}が仏教を神道から排除したが、賀茂真淵が儒教も排除した。これで「純粋な神道」の思想ができただろう。国学と明治時代に大きな役割を担った思想だ。

次回のテーマは、本居宣長の書籍なのではないかと思うが、講座全体のレジュメをどこかにおいてしまったので、詳しく分からない。それでも、楽しみにしている。


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