寛容は、私がよく考える問題だから、前にもブログで書いたことがある。それでも、また書かせていただく。
寛容が自由と深く関わる。自由を擁護することは、自分が評価しないことをする人の行動を妨げないのは必要不可欠だ。それは寛容だ。しかし、具体的に考えれば、意外に難しい問題になる。
好みについての寛容は比較的に簡単だろう。サッカーを楽しむ人を批判する必要はないと思いやすい。アイドルに夢中になって、グッズを沢山集めることもいいだろう。総理大臣の暗殺計画を詳しく企てることは・・・ 問題になっているよね。実現するつもりはないと強調しても、趣味としてそのようなことを寛容するべきかは疑問だ。
より基本的な活動が焦点となれば、問題がより深刻になる。なるべく多くの人と性交する生活を送ればいかがだろう。日本が中国に伏して中国の一部になるべきと主張して、実現する為に運動する活動は問題ではないか。子供の躾に暴力を振るうことも、他の人に行動を禁じることも、問題だ。抽象的に言えば、寛容の芯に悪を許す行為が据えられる。しかし、悪は許してはならないことの定義だ。
また考えたら、寛容には三つの段階があると言えよう。先ずは、促す。いいと思う行動を促進することだ。もちろん、これは「寛容」とはあまり言われないが、他の段階と繋がるので、ここで視野に入れる。そして、認める。これは促すほどではないが、批判せずに、妨げにならないように気をつける態度を指す。最後に、許す。これは、禁じないけれども、批判したり抑制したりする態度を指す。「本当の寛容」は認めることだとよく言われる。イスラム教を批判すれば、本当に寛容的な態度ではない、と。
しかし、こうであれば倫理との矛盾がある。例えば、カトリック教会で女性が神父になれない。それは良くないと私が思う。倫理的にやっては行けないことだ。なんで黙って受け入れなければならないか?もちろん、宗教には特権はないので、この立場の本当の意味は、いつも批判しないことだ。北朝鮮の政権を批判するべきではないということになる。そういえば、擁護する人はいないだろうが、(換言すれば、北朝鮮の人も拒む。「アメリカの政権を批判するべきではない。」)批判してもいいことと批判してはならないことを区切る線は何だろう。だから、許すだけが寛容の範囲に入ることを認めるべきだと思う。
それでも、どこまで悪を許すべきかと問われたら、それは答え難い。直接に、そして無理矢理に、人に損害を与える行動を許さないほうがいい、と言ってもいいかと思ってきたが、それでも難しい。比較的な不利益が対象外になるので、白人のみの雇用が許すべき範囲に入ってしまう。一方、二酸化炭素を大気に放つことが許せない行為になる。(利益は特定された人にしか及ばないが、損害が無理矢理他の人にもたらされる。)既存の意見と完全に添えないことは、真があることを証拠する側面だと言っても、なんか不思議な気分だ。これにしたら、白人のみの雇用を許しても、絶対に認めない。だからこそ、単純の許しを寛容の範囲に入れておきたかった。
最初に述べた通り、奥深くて難しい問題だ。解決をこれからも探る。
コメント
“寛容” への2件のフィードバック
これはおもしろい問題ですね。
倫理的には相対主義の問題ともからんでくる。
http://plato.stanford.edu/entries/moral-relativism/
ある一つの倫理的命題について、例えば、堕胎や死刑制度の可否について、賛否がわかれ、両説とも一応説得的で、かつ、他説に対して決定的反論がない、という場合はありえるだろう、と思うのです。
かといって、すべての倫理的命題についてそういうことがいえるか、というと、そうではない。例えば、女性の性器切除など世界の一部の地域にありますが、あれは、どう考えても間違っている。
もっとも、ある倫理的命題がこの意味で、普遍的に、絶対的に間違っている、ということと、その習慣に対して、他国・他文化が介入すべきか、すべきとして、いかに介入すべきか、は別問題である。
で、私は、日本人”的”態度と、例えば、アメリカ人”的”態度というのに違いを感じるのです。これは、私の仮説というか、理論というか、一つの考察ですけど、多神教的文化的背景と、一神教的文化的背景の違いがあると思うのです。
日本では、地域、地域にその場所を支配する神様がいて、山に行ったら、そこの山の神様を拝んだりという具合に、そこにいったらその神様を尊重する、ということがある。で、そういう意味では自分たちと異なる部分社会独自の規律というのを尊重する。
反面、世界のある地域で横行する不当な倫理的習慣についても、わりに無関心である、とうい弊害もある。
他方アメリカなんか、いろんな国にちょっかいだしすぎる。誤解や、誤解に基づいた宣伝によってちょっかいを出す場合も多いようですが、その裏には、倫理的命題は普遍的に正しいから、ーーー普遍的といいながら、実はアメリカのローカルルールという場合も多いのですがーーーーここで悪ければ、あそこでも悪いから、あそこの習慣を変えさせるべきである、といった信念が強いのではないか、と思う。その背景には一神教的文化背景があるのかな、と思うのです。
それはいいとして・・・・
「例えば、カトリック教会で女性が神父になれない。それは良くないと私が思う。倫理的にやっては行けないことだ」
私はこれ微妙かな、と考えているのです。
1)カトリック教会は任意団体であり、入信しなくてもいいし、脱退の自由もある。
2)カトリック教会は国民・市民生活での必要性は低い。
3)そもそもそういう団体である、という同意がメンバーにある。
こう考えると、そういう団体があってもいいではないか、とも思えてくる。
あってもいい、と断言してしまえば、リバタリアン(libertarian)風になりますけど、私は2)の要件を重視したい。
例えば、公的機関が市民の必要性が強いから、差別行為は許されない。しかし、例えば、趣味で集まるクラブなどのメンバーの要件として、例えば、日本人は駄目だ、男性は駄目だ、というのはありかな、とも思うのです。
もちろん個人的には、そういう団体は、ケツの穴が小さいなあ、と思いますけど、メンバーの要件を平等にせよ、すべての人に開かれたものにせよ、と公的に強制するほどのものかな、とも思う。
私は、日本人で、男性ですけど、生活していく上で、そうした団体に入る必要性はないから、あっても別に気にはしない。
もっとも、そうした差別的な私的な団体が社会に多く横行しているとすれば、なんか、気持悪い感じもします。
そんなことをつらつら考えて、いまだにはっきりとした結論をだしていません。
因みに、オリンピックの女性競技(男性競技)に男性(女性)が参加したい場合、それを拒絶すると差別になるのかなあ、なんてことも考えています。なぜか、あまり問題にされないですね。
@空様、返事にはほぼ一ヶ月がかかってしまいまして、申し訳ございません。
宗教的な背景には強い影響力があると私も思います。しかし、普遍的な倫理店に拘ったら、それは寛容に至るかどうかは疑問ですね。普遍ではなければ、あそこで妥当ですから、寛容より、倫理的な妥当性を認めることに過ぎません。もちろん、より広い範囲で行動を認める倫理もあれば、狭い範囲しか認めない倫理もありますので、心も広い倫理のほうが心地よいでしょうが、それは寛容と別な問題だと私が思います。
ところで、カトリック教会の問題ですが、日本では生活での必要性は低いとしても、フィリピンや南米ではそうではありません。相当する例は、トヨタ自動車が管理職に女性を一切受け入れないことです。トヨタ自動車に勤めるかどうかは任意ですし、退職も自由にできます。しかし、2と3が当て嵌めるかどうかは不明です。
一方、神社の間に男性の神職しか奉仕させない神社も、女性の神職しか奉仕させない神社もあっても、お互いに認めたら問題はないでしょう。重要なのは、組織の中に同じような役割が開いていることです。
とはいえ、倫理的に悪いと言っても、批判を過ぎないと思います。強制的に変えれば、それは寛容的ではありません。ただし、税制上の優遇は必要ないでしょう。それが「促す」に近づくからです。
私も、公的な施設には差別的な行為を絶対に避けてほしいです。私的な機関で許しても、公的であれば許しません。それは、寛容ではないですね。本当に難しい問題です。