真由喜を叱ったら

昨日真由喜がお稽古にゆり子と一緒に行って、よくできたそうだ。ちょっと風邪気味だったので、練習は短い方だったが、木曜日より大幅にましだったという。そして、帰ったら私が仕事をした間にゆり子をちょっと困らせたが、ようやく晩ご飯を一緒に食べた。

途中で、真由喜がアジを手で食べ始めた。ゆり子が注意したが、真由喜がすぐに反応してくれなかった。だから、ゆり子が私も言わせたので、「本当だよ。フォークで食べるべきだ」と言った。そうすると、真由喜が怒った。ゆり子を軽く蹴ろうとしたし、ちょっと「マミーが悪い!」と叫んだりした。だから、「マミーを蹴らないで」と言って、一分ぐらい待った。真由喜が落ち着いたら、フォークでアジを食べた。

やはり、四歳児で反発は避けられないことだと思う。でも、真由喜がわざと痛くなるように蹴らないし、ちょっと叫んでも問題にならないので、落ち着くまで待ってもいい。落ち着いた真由喜が殆どの場合指導に従うし。

その後、感謝することをする前に私とちょっと遊んだ。ソファーを走り回ったり、捕まえたりした。しかし、ゆり子に下までの響きが気になったので、すぐに止めることになった。真由喜がまだ遊びたかったが、下の人にどんどんどんの音が響くことを説明して、真由喜がちょっと考えて提案した。

「私がソファーの上で走って、ダディーがここで座って捕まえて」と言った。本当にごっこ遊びになった。私に動けななったし、真由喜は目の前だったので、本気に捕まえようとしたら即座できた。でも、真由喜が楽しそうにソファーの上で走ったし、ソファーのお蔭で下まで響かなかったと思う。これはいい反応だったと思う。問題を受け入れてくれて、問題を避ける方法を発想した。

このようなやり取りで、真由喜が自分の行動を自分で管理できるようになると思う。私たちが見ているから悪いことしないではなく、なぜしては行けないことが分かるからしない状態だ。このようにできる年齢になってよかったと思う。またできない年齢になってしまうと言われるけれども。

準備万端

来週から日本論理検定協会の仕事が本格的に始まるので、今日上司との打ち合わせをして、12月の予定を確認した。戦略的なことから最初日に何時にオフィスに着いたらいいまで様々な範囲に亘る話をして、もう始まろうという気持ちだ。勿論、この二ヶ月に準備に努めたので、単純な「今始まる!」という気持ちではないが、オフィスで同僚と一緒に働くことになるので、新鮮な経験になるだろう。

実は、もう40歳になったのに、オフィスで働くのは初めてだ。大学で働いた時、確かにオフィスがあったが、「オフィスで働く」ことではない。大学は別世界だからだ。日本に来て以来、フリーで働いて、職場は家だった。出張レッスンがあるものの、勤務先に通うこととやはり違う。銀行の口座の申請などにも、勤務先と住所は同じだった。だから、それも楽しい。それに、オフィスで集中して働くことができるはずだ。家で、真由喜が可愛い邪魔者になることは少なくないし、レッスンの合間に仕事することになるが、オフィスで真由喜はいないし、レッスンは少ないので、仕事が進むと予想する。

今日決めた予定表を見たら、進むといいと思う。上司によると、残業しなくてもいいそうだが、暫くの間せざるを得ないと私が思う。仕事が凄く進んでくれれば、ちょっとだけ残業で済めるだろうと思うので、頑張る。真由喜との時間が縮まないといいからだよね。少なくとも、寝顔しか見ない状態に陥らないように気をつけないといけない。実は、中長期的な予定を見たら、来月と再来月は特に忙しくなって、2月からちょっと落ち着く見込みだから、二ヶ月頑張ったら大丈夫だろう。

このブログを五年以上続いてきたので、止めるつもりはないが、投稿が短くなる日の割合が増えるだろう。予めご了承ください。

祝詞の作文と挑戦

今朝、白幡八幡大神にお参りして、私が作文した祝詞を見ていただいた。日本論理検定協会の仕事がもうすぐ本格的に開始するので、それに合わせてご祈祷を執り行ってもらうことにした。前回のご祈祷で、自分で祝詞を作成するように促してもらったので、今回挑戦してみた。草案を神社まで運んだら、正直に言えば緊張した。幸い、神社の方に優しく見てもらって、「このままでもいいでしょう」と言っていただいた。勿論、ご祈祷までちょっと手入れを貰うが、結果を見て、今後も取り組むだろう。

今の知識で完全に古語で書くわけがないが、教科書の例文を見て、引用すれば必要な表現を見つけることができる。そして、祭祀の内容を伝える部分のために決まり文句はないので、祝詞の形に則って、現代語で書いた。自分の言葉で奏上するのはいいと私も、白幡さんの神職さんも思っているようだから、練習したくなる。それに、作文が大好きで、祝詞なら新鮮な分野だ。日本語の古語はただもう一つの言語で、現代語にかなり似ているので、勉強すればできるようになる筈だ。問題は時間だよね。日本論理検定協会の仕事が落ち着く前に本格的に勉強できないので、適当に例文などを見たりすることになるだろう。

このような機会をいただいて、本当に光栄に思っている。日本人は、本当に心が広い人たちだよね。

修正加筆

仕事の日になった。午前中(正午を二時頃にしたら)日本論理検定協会の講座の第一回の原稿の修正して、レジュメも用意した。草案の原稿を上司に読んでもらって、そのコメントに基づいて修正した。日本語の指摘もあったが、少なかったし、訂正するには時間がかからなかった。実は、ほとんどは昨日できた。今日、内容の訂正だった。講義の内容は英語で論理的なコミュニケーションだが、私の英語も論理の理解も上司よりいい。自慢ではない。この技術の為に雇用されたね。だから、上司の指摘に従って修正するのは、どういうことかと思われるだろう。ただ首にならないための工夫だろう。

もちろん、そうではない。上司の指摘は、「この点は意味不明だ」とか「この記述は全面的に分かりにくい」などだった。講義の用途は、素人に論理的な考え方と英語の使い方を教えることだから、上司に分かってもらえなかったら、問題があることは明らかだ。説明をより細かくしたり、換言したり、具体例を補足したり、理解しやすい原稿に直そうとした。再読すると分かり難さを認めるところもあったが、私の目には問題はないところもあった。後者こそ、指摘は貴重だ。

なぜなら、講師の立場にあれば、生徒が分からないと、自分の説明には欠点があると考えるべきだからだ。自分で明瞭な説明であると判断しても、他の人が分からなかったら修正するべきだ。相手の能力不足を示す問題だと思っても(この場合はそうではないけれども)、まだ修正に頑張ったほうがいい。どうしてかというと、なるべく多くの人に分かってほしいのは教師の宿命だからだ。能力の水準の低い人に分かってもらえれば、教師として誇れることだ。勿論、限界がある。教師の能力は無限ではないので、努力しても明らかにできない場合もある。一方、内容自体には避けられない難しさがあるので、理解する為にかなりの能力は必要の場合もある。でも、努力しないと、自分の能力の本当の限界も分からないし、内容を理解する為の最低能力水準も分からない。(努力で自分の能力も鍛える。この六年間で、私の英語を説明する能力が発達したと思う。)

だから、できない人には評論する資格はない意見は、私が擁護しない。できない人には問題の解決方法を提案する能力はないかもしれないが、問題を指摘する力がある場合は多い。小説を自分で作成できなくても、或る小説はつまらないことを判断できるのではないか。

では、第一回の準備はここで終わりだ。一回も受講生からのご意見を聞いたら、また修正する。