寿命総暇

前日、文明の目標は無駄の時間だと述べる投稿した。国内総生産主義や金融機関の問題を見たら、通貨で計れる社会の要素を中枢に据えない方がいいと思う人が少なくなくなってきたが、私もその一人だ。一人当たり国内総生産の代わりに、一人当たり幸福度や満足度を計ろうとする人もいるが、このことを実現するのは極めて難しい。基本的に、幸福や満足は計れることではないからだ。調査で人の気持ちを調べることは確かにできるが、それが本当に目指すべき幸福を計るかは疑わしい。質問の聞き方によって結果が大きく左右される恐れもあるし、「嬉しさ」か「幸せ」か「満足」かといえば、焦点によって結果が異なる。

それより根本的な問題は、国家が直接に国民の幸福を目指したら、国民の生活を左右するようになる恐れがあるのではないか。人に自由を与えたら、幸福に貢献しないことをしてしまう人は少なくないのは否めないが、それを認めるべきだと思う。人が自分の決断の結果に耐えるしかないが、原則として自由に選ばせるべきだ。

今日の発想だから、問題がまだ潜んでいる可能性は高いが、提案として「寿命総暇」を掲げたいと思う。読み方として、「じゅみょうそうひま」か「じゅみょうそうか」か選択肢があるが、四字熟語であれば、音読みのほうが普通だから、「じゅみょうそうか」のほうがいいだろう。

漢字の通り、これは人生の中に合計でどのぐらい自由に使える時間があることを指す。これにさまざまな条件がある。

先ずは、病気などが自由の使いを妨げるので、時間から何かを引くことになる。寝たきりであれば、自由に使える時間はないと看做す。ずっと入院であれば、使える時間もあるが、できることは限られているので、例えば一時間が10分に看做される。だから、平均寿命が長くなったら、寿命総暇が高くなるが、病気になる期間が縮むことでも高くなるので、寿命を伸ばすだけではなく、元気でいる時間も伸ばすことになる。

そして、しないと行けないことは自由に使える時間ではない。だから、健康を維持するために必要な平均睡眠時間も24時間から引く。そして、基礎生活費を稼ぐ為に必要な時間も引く。「基礎生活費」には衣食住も医療も入っている。季節に対応する服装、栄養バランスがいい食事、そして趣味などをするために空間がある住居は必要だ。収入が基礎生活費を満たない場合、自由な時間をゼロと看做す。それ以上、自由に時間を使えるために費用するので、一時間当たり何かの金額を定めて、基礎生活費が引かれた収入が足りる時間まで実に暇になる時間しか数えない。収入がこのレベルを上回ったら、自由に出勤時間を部分的に減らすことができれば、自由に使える時間に仕事をすることにしたことになるので、仕事の時間も暇の時間と看做す。一方、雇用契約の条件で毎週40時間を働かなければならないなら、収入が必要な基準の10倍になっても、契約や通勤の時間以外の時間が暇の時間になる。

残業などを計ることも必要だが、子育てや介護も考えなければならない。子育ては、人口政策によって何人目まで暇ではないと看做すべきだと思う。二人目か一人目か、それとも三人目かは、政策と実状によって定めるべきだ。それ以上の子供は、自由に時間を使うようにしたと看做す。介護は、自分の親や義理親、それとも子供や他の親戚の場合、暇ではないと看做すべきだが、他は自分が選んだボランティア活動として暇であると見たほうがいいだろう。

そして、寿命総暇をなるべく平等にしたほうがいいと思う。収入を平等にしなくても、自由に使える時間が確保できれば有意義な人生ができるからだ。少なくとも、最低限を保障するべきだが、必要な活動は多いので、最低限を保障することと平等を保障することの間には大きな差はないだろう。

政治などに影響を与える為にすぐに理解できる一つの数値は必要だと言われるので、その候補としていかがだろう。


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