修正加筆

仕事の日になった。午前中(正午を二時頃にしたら)日本論理検定協会の講座の第一回の原稿の修正して、レジュメも用意した。草案の原稿を上司に読んでもらって、そのコメントに基づいて修正した。日本語の指摘もあったが、少なかったし、訂正するには時間がかからなかった。実は、ほとんどは昨日できた。今日、内容の訂正だった。講義の内容は英語で論理的なコミュニケーションだが、私の英語も論理の理解も上司よりいい。自慢ではない。この技術の為に雇用されたね。だから、上司の指摘に従って修正するのは、どういうことかと思われるだろう。ただ首にならないための工夫だろう。

もちろん、そうではない。上司の指摘は、「この点は意味不明だ」とか「この記述は全面的に分かりにくい」などだった。講義の用途は、素人に論理的な考え方と英語の使い方を教えることだから、上司に分かってもらえなかったら、問題があることは明らかだ。説明をより細かくしたり、換言したり、具体例を補足したり、理解しやすい原稿に直そうとした。再読すると分かり難さを認めるところもあったが、私の目には問題はないところもあった。後者こそ、指摘は貴重だ。

なぜなら、講師の立場にあれば、生徒が分からないと、自分の説明には欠点があると考えるべきだからだ。自分で明瞭な説明であると判断しても、他の人が分からなかったら修正するべきだ。相手の能力不足を示す問題だと思っても(この場合はそうではないけれども)、まだ修正に頑張ったほうがいい。どうしてかというと、なるべく多くの人に分かってほしいのは教師の宿命だからだ。能力の水準の低い人に分かってもらえれば、教師として誇れることだ。勿論、限界がある。教師の能力は無限ではないので、努力しても明らかにできない場合もある。一方、内容自体には避けられない難しさがあるので、理解する為にかなりの能力は必要の場合もある。でも、努力しないと、自分の能力の本当の限界も分からないし、内容を理解する為の最低能力水準も分からない。(努力で自分の能力も鍛える。この六年間で、私の英語を説明する能力が発達したと思う。)

だから、できない人には評論する資格はない意見は、私が擁護しない。できない人には問題の解決方法を提案する能力はないかもしれないが、問題を指摘する力がある場合は多い。小説を自分で作成できなくても、或る小説はつまらないことを判断できるのではないか。

では、第一回の準備はここで終わりだ。一回も受講生からのご意見を聞いたら、また修正する。