他国の価値観

環太平洋経済連携協定の論争で「日本のアメリカ化を目指す協定だ」と強調する人もいる。その理由は、協定の中で環境規則などを塗り潰すところがあるからだそうだ。協定自体を読んだことはないが、信じやすいことだ。少なくとも、アメリカのメディアで日本の制度を批判する声があるが、特に最近オリンパスの巨額損失隠し問題で会計基準を批判する声も少なくないし、福島第一原子力発電所事故の後で原発安全基準を批判する声も多かった。スリーマイル島で地震や津波なしに原発事故を起こしたアメリカ、そしてエンロン、リーマンのオリンパスより遥かに深刻な会計問題を抱えるアメリカの批判する資格を問うこともできるが、その根拠をちょっと考えたい。

多くの場合、「私たちの基準は正しいので、これに従え」ということだ。こういう風に考えるのは当然だ。自分の基準をよくないと思ったら、他国より自国に批判を集中するのは普通の反応だ。(巧妙に自国の批判を示唆したい場合を除いて。)推進や批判を過ぎない場合は、一切否定しない。むしろ、するべき行為だ。なぜなら、自分の場合に適切な方法を見つけたら、他国にも当て嵌まる可能性は充分ある。人間の間に差があるが、そんな大きくはないので、日本人には民主主義がよければ、朝鮮人にもいい可能性は高い。同じように、アメリカ人の間に映画が大変人気があれば、海外にも人気を集める可能性がある。世界中の映画館を見れば、これは現実であることを痛感するだろう。だから、自国で発覚されたいい制度、若しくは試され、良質が確認された制度があれば、そのことを報告したり、宣伝したりすることは、或る意味で人道的な活動だ。同じように、自国である制度には問題があることが分かったら、それも知らせるべきだ。そうしないと、他の国の国民の利益を軽視する行為になる。「私たちにはいいけれど、中国人には不要だ」という判断で、中国人などの判断を事前に決めてしまうことだ。他の人間の自由を尊重すれば、自分の発覚を知らせるべきだ。

しかし、同じ理由で、強制的に受け入れさせるわけにはいかない。地域や民族や文化によって、事情が異なるので、自国で有利な制度であるからと言って、必ず他国でも有利であるとは限らない。そして、有利であるかどうかを決めるのは、その国の国民だ。日本人がアメリカの適切の制度を決めるわけにはいかない。同じように、アメリカ人が日本の適切な制度を決めない方がいい。(だから、日本国憲法は問題だと私も思う。第九条を基本的に擁護するが、日本人に作成された憲法のほうがいいとも思う。)

強制的にと言えば、武力で侵略して占領することは極端な例だが、制裁も同じような例だ。そして、貿易するために、国外にもあの国の基準に従う義務を付けることもするべきではない。国内市場で商品を売る為に、その国の基準を満たす義務を強いてもかまわないが、外国が本社が自国の会計基準に従わなければ、貿易できないのような規則は許されない。

一方、外圧に簡単に伏せるべきではない。自国の事情をじっくり考慮して、導入するかどうかを決めるべきだ。導入するべき場合も、導入した方がいい場合も、導入してもいい場合もある筈だが、導入しない方がいい場合も、導入してはならない場合もある。世界は統一的ではないし、統一的になってはならないので、国際基準を考えれば、このことを忘れないでほしい。


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