神道についての入門書で、神が自然現象と深く関わることが述べられる。周知の通り、天照大神が太陽と関係するが、大神神社のご神体は三輪山だから、神と山の間に深い関係があるのは明らかだ。しかし、殆どの入門書で、神は自然現象ではないことは強調される。天照大神は太陽ではないし、三輪山も神ではないと言う。神は、目に見えない存在で、不可解な関係で自然現象と結びつく。
一方、本居宣長の有名な神の提言には、自然現象そのものも深まれる。
ここで、何故太陽や三輪山を神様として認めてはならないかについて考えたい。もちろん、自然現象ではない神様があるのは否めない。八幡様と自然現象の結びつきは薄いし、天神の菅原道真は人間だったので、自然現象の神が多くても神の一部に過ぎないことは明白だ。神道の特徴の一つは神の多様性だと言われるので、これを問題視しない。だから、質問は、何故自然現象も神として認めてはならないのか、になる。
基本の問題は次の通りだろう。太陽は原爆している水素の塊に過ぎない。かなり大きな塊だとしても、心もない、感覚もない、依頼に応える力はない。祝詞を奏上しても、気づく能力は一切ないし、神事があってもなくても全く同じだ。三輪山も似ているが、神事で山の保護を行ったら、或る意味で神事の影響が受けられる。でも、祈願祭を執り行っても、応じてくれないのは決まっている。つまり、神と人間との関係は単純に一方的になることは問題にされるだろう。
しかし、それが神事に魔法的な要素を前提とする。そのような要素について疑問を抱える人には、「目に見えない存在」の神と大きな違いにならない。むしろ、なんと言っても太陽の存在を疑う余裕は全くないことがいいことになる。
そして、崇拝する行動で、感謝や敬意を表す意味で、応じられない存在に対して崇拝しても差し支えない。相手は岩石であっても、自分の心の中の敬意や感謝を認めて、表現する行動には充分意味があると思う。世の中の存在は自分だけではないこと、そして自分が生き残ることが他の存在のお蔭であることを意識したら、生き方にはいい影響を与えるだろう。
だから、例えば天照大神を太陽そのものとして捉えたら、もちろん文字通り皇祖ではないし、内宮の中にはないが、生命に必要不可欠な存在であることで、敬意や感謝を忘れないように崇拝してもいいのではないか。神事の相手神が何も聞けない、何も応えられないことに覚悟して神事を執り行ったら、まだ意味がある。勿論、西洋の学者が誤解する確率は極めて高いが、神道はもはやよく誤解されるので、新しい問題ではない。感謝のこころ、敬意のこころ、畏敬のこころを表すことは、神道の重要な要素になったと私が思うので、それを太陽や山や滝に対して表現することもいいのではないか。神は、Godと全く別な存在だから、神の範疇に山などを組み入れたほうがいいと私が思ってきた。