機会均等

最近、機会均等についてちょっと考え直した。というのは、機会均等の重要性を否定するようになったことではなくて、表現の意味をより深く考えたということだ。

一般の機会均等論と言えば、家柄や身分や性別などに拘らず才能や努力によって出世できる社会を構築すべきだと称える。家柄や身分には影響力があれば、機会均等はまだ実現されていないと言える。これが常識になっているほどだろう。でも、よく考えたら、疑問を抱えてきた。

家柄を重視した江戸時代の日本を考えよう。それは機会均等だったと言える。なぜなら、才能や努力などに拘らず、家柄によって出世できる社会だったからだ。これは機会均等ではないのは定義から分かることだが、「家柄」と「才能」の根本的な違いは何だろう?見つけられなかったら、今の「機会均等」は現在の偏見に過ぎない可能性は高い。

「才能」は本当に本人の質だということができる。一方、家柄は他の人の成績によっての質だから、出世の基準には相応しくない。それはいいとしても、性別や人種は本人の質だから、男女差別や人種差別を禁じることに至らない。それに、疑わしい前提だと思う。本人は本当にそのような家から輩出されたので、家柄なりに本人の質だ。才能も、社会環境には発揮する機会はなければ意味はないので、単純に人のなかではない。

では、本人の選択によって決まる質を基準とすればいいと言ったら、家柄も性別なども確かにそうではないが、才能もそうではない。美貌などと同じように、生まれながらの要素は大きい。努力は一見で異なると思われるが、努力を継続するための忍耐力は、生まれながらのところも大きいし、幼い頃の育ち方による要素も著しい。育ち方は、家柄や家族のお金と同じように、自分ができたことではない。

そして、反対側から見よう。家柄に拘る社会なら、家柄のない人には出世する道は塞がれる。一方、才能や努力を基準とする社会で、才能や忍耐力はない人には出世する道は塞がれる。家柄の重要性を唱える人は、家柄があり、才能はない人は多いが、才能の重要性を唱える人は、才能があり、家柄はない人は多い。才能はない人であれば、もう失望だろう。他の頼れるところはないからだ。自分には何もできないが、才能はないから下級の生活が運命になってしまった。家柄が乏しい結果と同じだ。

それでも、才能などには、相違点があると思う。それは、才能があれば、成績もよくなるので、社会に貢献する仕事に就いたら、本人の才能が大きければ大きいほど、社会には有利だ。だから、社会に貢献する職に、例えば総理大臣や官僚、医者や保育士には、才能がある人が就いたら、一般的にはいい。しかし、これは機会均等の立場ではない。これは、社会の利益を個人の利益より重視する立場だ。即ち、社会主義だ。才能によって出世を認めることは社会主義だと言ったら、変に聞こえるが、偏見に加えて社会主義だと言ったら、真相に近いだろう。

機会均等のない社会の問題点を探ったら、次の通りだろう。社会構成のため、出世できない人がいることは不可避な要素だ。家柄の場合、家柄のない人は出世できない。男女差別の場合、女性は出世できない。(または男性に出世できない可能性もあるが、明らかな実例はないようだ。)才能主義の場合、才能はない人は出世できない。自由競争になったら、比較的に才能はない人が圧倒的に大多数になるので、家柄主義の問題と同じ規模だろう。

解決策として、出世路を多様にする社会構成を目指すべきだと思う。皆が出世するのは論理的に無理だが、誰にでも出世する機会があることを保証するのは、社会の責任だろう。才能がある人が特に社会に貢献できるので、才能で出世する道を保護するのは一番重要だろうが、それだけであれば、深刻な問題だと思ってきた。例えば、家柄で出世して知名度の高い座に就く道も確保して、単純に運で出世する道も、例えば宝くじを、設けるべきだろう。勿論、才能によっての出世路も多様性できる。体力で出世する道も、美貌で出世する道も、学力で出世する道も、それぞれがあるように力を尽くすべきだ。もう一つは、単純な継続で出世する道だ。成績は良くなくても、同じ職業を数十年間続けたら、部長になることは例だ。

目標は、何の人柄の持ち主でも、出世を希望できる道があることを確保することだ。才能がある人にしか配慮しないわけにはいかない。


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