政治家が殆ど言わないことは、「間違えた」だ。企業の経営者もあまり言わない。個人にしても、言いたくない人も場合も多い。これは自然だと誰でも認めるが、一方認めた方がいいのを認める人は少なくない。間違えたら、ごまかすより潔く認めたほうが誠実だろう。認めたほうがよかったら、抵抗感がある理由が何だろう。「プライド」だと言いきれたら、確かにそうだが、それで理由を理解できない。プライドって、何?
大別したら、原因は二つだろう。一つは、誤解や失敗が自分の過失から発生した場合、過失を隠蔽するために誤解などを認めない。成功に終わったら自分にはいいが、この戦略には大きなリスクが伴うのは周知の通りだ。隠蔽が発覚されたら、元々の過失より大きな問題になる場合は多い。意図的に事実を隠したので、軽い過失や中ぐらいな過失より酷い。原因の過失が酷かったら、罰がより悪くならないだろうが、(なぜなら、過失でもう最悪な罰になるからだ)評判がより下がるに違いない。一方、隠蔽が成功を果たしても、まだ失敗の問題が残るし、認めなければ失敗の影響を軽減する努力が遅れたり困難になったりする。これは、責任を避ける為にとる方法だから、許す人は少ないだろう。
一方、もう一つな理由は許されるだろう。それは、自分の誤解や失敗を認めたら、信頼を失うので、隠蔽する。誤解や失敗の悪影響が残ったら、それでばれるので、解決に全力を尽くすが、そもそも失敗を認めない。例として、イラク戦争を上げよう。侵略する決定は間違いではないと言っても、戦略を大きく失敗したと言うしかない。だから、いい結果が出るように努めた人は少なくないが、失敗を認めることは少ない。失敗や誤解を認めたら、信頼度が下がるのは確かだが、それ自体は問題だと思う。
勿論、いつも間違える人であれば、信頼しない方がいい。一方、一切誤解などを認めない人も、信頼しないほうがいい。なぜなら、人間だから失敗や誤解はない筈はないので、隠蔽しているはずだ。意図的に隠蔽すれば、それは問題だ。自分の誤解などに気づいていないなら、それは信頼の立場から考えたらより深刻な問題だろう。そして、奥深い問題についての意見が研究などの成果で意見が変わるのは当たり前だ。状況が変わる次第、適切な政策も変わるので、それも認めるべきだ。だから、認めた誤解の内容を考えて、信頼するかどうか決めるべきだ。
そして、自分の誤解などを認めたら、知り合いの信頼度が増す可能性は少なくないだろう。なぜかというと、失敗などを認めない場合は本当に正解である可能性が増すからだ。要するに、知っているふりはしないことが分かる。でも、それより、少なくとも自分に認めて、正しい意見ややり方を探したほうがいい。