先日北川景子さんが本の解釈についての投稿をブログにアップした。(投稿のタイトルは『帰国』だが、内容の主な部分は本についてだ。)内容は興味深いので、ここでちょっとコメントする。
先ず、このような投稿があるからこそ北川さんのブログを読んできた。作品についての情報は勿論知りたいが、他の入手する方法はある。でも、本人の意見も興味深いので、読みたくなる。有名人ではなかったら、ブログを見つけたはずはないが、仮に見つけたとしたら読み続けた可能性は充分あると思う。
では、今回の投稿のなかで、北川さんが以下の通りに書く。(・・・が私が省略したところを指す。)
こんなことを言うと評論家の先生に叱られてしまいそうですが・・・
「ここからはご自由にどうぞ」と言われているような
気軽さがあるから良いのだと私は思っていて・・・。
私もまさしくこの通りだと思う。評論家の先生の間にも賛成する人は少なくないが、私は作家の立場から考える。私の本は有名ではないと言ったら、全く無名だが、書いたこともあるし、私の知り合いではない人に読んでもらったこともある。だから、読者の解釈についても考えたことがある。書く時「本当の意味」が頭にあるのはいうまでもないが、それはただただ私が構成のある本を書く為だ。出版された本は読者の物になるので、自分勝手の解釈を作ってもいい。その解釈は私の考えたことよりいい場合もあるし、本の登場人物について考えたくなることは、本に惹かれた証拠だから、むしろ私の目標しか探さない行為のほうが悲しい。
そして、北川さんが言う通り、読者の方には変化があれば、本の印象も変わる。特に、いい本で登場人物は本当の人間に近づいて、行為の解釈や評価は本自体に縛られないので、自分の立場がかわったら、本の登場人物の評価も変わる筈だ。これも、読書の利点だと思う。ある意味、本が鏡になって、自分の思うことがよく分かってくる。このような機会を与えない本を軽い文学と看做してもいいだろう。非現実的な内容か、現実の描く内容かではなく、読者が自分と再会できることは重要だろう。
しかし、北川さんが読んだ本の主人公は、18歳で読んだところに大人っぽく見えたが、今の25歳で幼さは微笑ましいという。25歳はまだまだ若いと思う。確かに18歳の大学へ入学する前のときより成長したが、25歳はとにかくまだ若い。余談だが、年を取ったら、いつも前に想像できなかった成長を見つけたので、この過程が将来にも続けると思う。25歳の私は、子供っぽくなかったが、今の私から見たら、まだ成長は必要だったなと思わざるを得ない。55歳の私が40歳の私を見たら同じだと信じる。だから、北川さんの表現は確かにそうだと思うが、微笑ましい。
本、特に小説を読むことは、勿論娯楽の要素もあるが、自分と再会して、自分の考え方を見直す貴重な機会だと思う。
(ところで、北川さん、私が足首をひねったからと言って、自分の足をひねる必要はないよ。)