八槻都々古別神社

境内の中から撮られた鳥居と木々1月30日にツツコワケ神社を巡拝した。ツツコワケ神社というのは、福島県に鎮座する神社で、陸奥{むつ}の国の一宮{いちのみや}に名乗る。一宮は原則として一つの国には一つが鎮座する筈だが、公式な制度ではなかったので「本当」の一宮は曖昧か、複数の神社がその役割を担ったケースもある。これはその一つだ。ツツコワケ神社は三つあるし、塩釜神社も陸奥の国の一宮だと言われる。しかし、このツツコワケ神社がJRの水郡線に沿って鎮座することから、日帰りで参拝できることが分かったので、計画した。前もって神社に連絡して、被災地復興祈願の祈願祭を依頼したので、当日には天気が悪くないようにも祈った。

東京からの交通として一番早い手法は、東北新幹線で郡山に行って、そして水郡線{すいぐんせん}に乗り換えることだ。しかし、そうすると同じルートを繰り返すし、電車の窓越しで楽しめる風景が少なくなるので、私が水戸経由で行くことにした。その結果、家を出る時刻が5時半になってしまった。暗闇の中に溝の口へ歩いて、そして地下鉄で上野駅まで行った。上野で特急に乗り換えて、水戸まで至った。水戸で、水郡線に乗り換えたが、水郡線は各駅停車のみだし、本数も少ないので、水郡線に合わせるように計画した。幸い、無事に目指した電車に乗れた。そして、電車からの風景がすぐに山になって、楽しかった。

横から撮られた朱塗りの社殿
本殿と拝殿
最初の八槻都々古別{やつきつつこわけ}神社に参拝する為に、近津駅で降車して、ちょっと歩いた。当日の気温が零度を下回ったが、雪などが降らなかったし、ほぼ晴れだったので歩くのは気持ちよかった。神社に着いたら、神職にすぐに拝殿まで案内してもらった。珍しいことに、神職が二人いたが、二人とも女性だった。服装から二人とも資格を持つ神職であることが分かったが、姉妹だそうだし、社家を継ぐ方だと思う。

祈願祭をとても丁寧に執り行ってくれた。神職の一人がお祓いを行って、そしてもう一人が拝殿から廊下に入って、本殿に近づいて祝詞奏上した。席から廊下の中に見えなかったが、祝詞をはっきり聞こえた。その中で、いつものように願主を紹介したが、私のことを「マレビト」と呼んだ。「マレビト」というのは、遠いところから来た人の意味だが、神道の伝統には極めていい意味を持つ言葉だ。特に柳田國男氏の理論で、神様がマレビトとして祭祀に出席したという。だから、ある人が外国から来たことを指す為に大変いい言葉だと思う。そして、私が玉串を捧げることになった。廊下に入って神前に玉串を奉る間に、神職の一人が生で雅楽を演奏した。本当に厳かな祈願祭だった。

拝殿の注連縄祈願祭の後で御朱印をいただいて、境内の写真を撮った。縁結びの木もあるし、社殿の周りに鎮守の杜が聳える。福島県では、境内を守れた神社は少なくないだろう。写真で見えるように、社殿の前に門もあるし、柵によって区切られた空間もある。社殿の前の注連縄の形は珍しい。入り口の前の柱に付いたが、真ん中に結びもあったし、かなり下がった。このような形を初めて見たかと思うが、次の馬場都々古別神社へ途中でまた見た。地域の特徴かもしれない。

神社の御祭神は、味耜高彦根命{あじすきたかひこねのみこと}日本武尊{やまとたけるのみこと}だそうだが、伝承によると、日本武尊が神社を創建したそうだ。式内社であるそうだから、少なくとも1100年以上の歴史があるが、神社についての説明によると、長い間修験道と密接したそうだ。社家の八槻家は熊野先達{くまのせんだつ}で、熊野詣での案内をした修験者だったという。勿論、神仏分離になったら仏色が一掃されたが、この歴史からの影響が残ると思えるだろう。そして、特殊神義のなか、国の重要無形民俗文化財に指定された御田植祭があるそうだ。旧暦の1月6日に行われると言われるから、私が参拝した時に近かった。残念ながら、日にちがちょっとズレたけれども。

祈願祭でお札と破魔矢を授与したが、破魔矢は大きくて、電車で運んだら壊れてしまう恐れがあったので、送ってもらった。破魔矢と一緒に大変丁寧な手紙が届いた。一年後納める為に八槻都々古別神社へ郵送してもいいというが、私は氏神様で納めると思う。

この参拝は本当にいい経験だった。もう一度お参りしたいと思うが、他のお参りしたい神社は多いので、できるかどうか分からない。でも、お勧めだ。


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