馬場都々古別神社

八槻都々古別{やつきつつこわけ}神社から馬場都々古別{ばばつつこわけ}神社までただ5キロ程度だし、水郡線の電車は少ないので、歩くことにした。その他の理由は、118号の道路を歩いてもいいので、道に迷う恐れはほとんどなかったし、ちょっとゆっくり地元の風景も楽しめると思ったからだ。予想の通りになった。景色には雪があったが、もう歩道には雪はほとんどなかったので、安全に歩けた。地域の印象は過疎地ではないことだった。道路と鉄道のお蔭かもしれない。

雪の中で、鳥居の無効に社殿が見える。馬場都々古別神社に着いたら、境内に積もった雪はちょっと多かったので、表参道を進むのには注意は必要だった。手水舎の周りには氷が凍ったが、バランスに気をつけながら手水の義ができた。そして、神職を探した。予定よりちょっと早めに到着したし、神職にはもう一つの職業があることも分かったので、まだいないかと思ったら、随神門を通ったら、社殿から拍手の音が聞こえた。確かめたら、宮司さんが社殿で立って、私に手を振った。気づかされて、社殿に向かった。

この拝殿と本殿は、八槻都々古別神社と基本的に同じ形だったが、私の座る位置が違ったので、拝殿と本殿を繋ぐ廊下の中に見られた。宮司さんが先ず初穂料{はつほりょう}を神前に奉って、そしてお祓いを行った。祝詞奏上の後で、玉串を奉ったが、宮司さんが先に奉ってから、私が後で廊下に入って拝礼した。

祈願祭が終わったら、暫くの間拝殿のなかに座って、宮司さんの話を聞かせてもらった。馬場都々古別神社の歴史は長いそうだが、証拠の一つは大鎧を所蔵することだ。この大鎧は、しっかり作られたし、丁寧な施しで、朱塗りでいつもより多く四回塗りだそうだ。専門家が見たら、平安時代末期や鎌倉時代初頭の物だと看做されるそうだし、権力者の物であったことは間違いない。そして、源頼朝が弟の義経を追い掛けたところ、7日間馬場都々古別神社から遠くない白河で宿泊したそうだから、おそらくその時大鎧を納めたのではないかと思われます。定かではないが、可能性はかなり高いそうだ。鎧自体は残念ながらバラバラになってしまったので、国の重要文化財に止まるが、神社の歴史や権威を語る宝物だと言えよう。

それに、額も歴史のあるものだ。明治時代には都々古別神社という額を皇族に書いてもらったそうだが、それが拝殿のなかでかかっている。そして、江戸時代に松平定信{まつだいらさだのぶ}によって書いてもらった物もあるというが、それは拝殿の外にかかっているので星霜に晒され、金箔の文字が荒れている。宮司さんによると、八槻都々古別神社と馬場都々古別神社の古代の歴史は不明であるそうだ。江戸時代の初頭に、馬場都々古別神社のほうが重要なのようだが、八槻都々古別神社があの徳川光圀と関わって、江戸時代後期により重要になった。しかし、明治時代になったら、馬場都々古別神社がすぐに国幣社になったのに対して、八槻都々古別神社は十年後だったそうだ。過去には権威争いがあったと想像できる。

神社の門を見上げて、木と青空が見える馬場都々古別神社の境内は素晴らしい。本当に神社らしきところだ。宮司さんによると、江戸時代にお城の建築の為にもとの鎮座地から霊山に遷座されたそうだが、社殿などは江戸時代に藩主などの篤い保護で建てられたという。拝殿の床の板は驚くほど厚くて長い。東日本大震災で、社殿が殆ど揺れなかったそうだから、当時の職人の腕が分かる。境内には木々は多いし、神社の建物には朱塗りなどはないので、大自然に中に溶け込む。

表参道から入ったら、石段を登りながら鳥居をくぐって、手水舎や社務所に辿る。そこから参道は平で、随神門をくぐる。随神門の内側には銅の鉾が立つが、内側の物は神社によって異なるようだ。東京の日枝神社でお猿の彫刻だし、八槻都々古別神社で狛犬だ。随神門から続いたら、また鳥居をくぐって柵に区切られた空間に入る。ここで社殿が建つ。社殿は、拝殿と本殿からなって、その間に廊下がある。この廊下は、権現造りの石の間のようだが、社殿は権現造りではなさそうだから、ただの廊下か、幣殿か分からない。神社建築は専門ではないので、細かいところでまだ迷う。

宮司さんの話を聞いてから、境内で写真をちょっと撮らせてもらったが、すぐに電車に向かう時間になった。この神社も、またお参りしたい。


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