法律の拘束力

法律に従うべきだ。それは当たり前だろう。しかし、もう少し考えれば、問題になる。

先ず、よく使われるナチスドイツの例を考えよう。法律にユダヤ人を殺すように命じられても、殺してはいけない。それは深刻な倫理違反だから、法律がそう言っても、拘束力は一切ないと多くの人がいう。

そして、今日新聞でタイについての記事を読んだ。ある大学生がタイの国王を批判したそうだが、その為に起訴されるそうだ。記事から、大学生が何も悪いことをしていないかのように書かれた。これも、当たり前だろう。言論の自由を侵す法律を批判するのは、ジャーナリストの常識だ。しかし、国王を批判しなくても、倫理的な問題ではない。この場合、法律に倫理を侵すように命じられるではなく、倫理的にしてもいいことが命じられる。ただし、倫理的にこの自由を縛る根拠はない。倫理的にしてもいいことだ。

一般論にすれば、法律が倫理が禁じる行動を命じたら、拘束力は認められない。それに、法律が倫理が許す行動を禁じたら、拘束力は認められない。要するに、法律が倫理と異なることを命じたら、拘束力は認められない。それは、法律には拘束力はないと等しい。倫理の拘束力しかないからだ。

それに加えて、現在の社会で人によって倫理的な感覚が異なることは認められる。そうなら、人の個人的な判断によって法律に従うかどうか決めてもいいといえる。刑罰が暴力団の脅威と同じような暴力になる。

他方、法律はないと、そして法律を尊重してもらわないと、社会が成り立たない。

ここに難しい問題があると思う。普通に常識と思うことの何かを放棄するしかないだろう。私には、まだ解決が分からない。


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コメント

“法律の拘束力” への1件のコメント

  1. lkのアバター
    lk

    その倫理の曖昧な点を規定するのが法なのだと思います。

    倫理はある意味で常に正しいが、境界は曖昧である。
    法律は常に正しいとは限らないが、境界は比較的明確である。

    倫理は法律の上位的存在ではなく、法律は倫理の末端を、
    倫理は法律の中核を互いに監視しあう相互的なシステムと言う
    捉え方をしてはどうでしょうか。