『神道のちから』

帯に「<神道>再発見!」と書いてあるこの本は、田中恆清{つねきよ}氏に著された。田中氏は、石清水八幡宮{いわしみずはちまんぐう}の宮司で、神社本庁の総長だから、事実上現在の神社界のトップだ。本は、取材に基づいて執筆されたそうだが、田中さんの神道観念を表現する本だと思ってもいい。取材が去年の2月から始まったそうだが、東日本大震災が取材が終わる前に起きたので、災害の対応や解釈も書いてある。田中氏の神道観念は、田中氏の観念であるからこそ興味深いが、実は共感できるところは多かった。だから、この投稿で私の感想を紹介したいと思う。

先ず、私も強く感じる神社についての強調が本で一貫する。7ページに次のように述べる。

もとより、神社というのは、誰でもいつでもどんなときでも、行っていい場所なのです。ほかの信仰を持っていようが、あるいはイデオロギーがちがおうが、何人をも拒まないのが神社です。さまざまな思いを抱いて詣でる人を、神社というのはいつでも誰でも受け入れてきました。

私の経験からいえば、その通りだ。神社にお参りしたら、いつも受け入れてもらうような気がする。これは、神道の素晴らしい性質だと思う。信仰さえ問わずに詣でる人を受け入れることは、寛容そのものだ。神道がこの性質を悠久に保ってほしい。

でも、この点と繋がることで考えさせてもらった。田中氏が「神道は超宗教的だ」とも主張する。この概念は、戦前で神道の儀式に強制的に参加させる根拠として使われたので、私は慎重に思わざるを得ない。それに、「超宗教」を理解する為に、「宗教」の範囲を詳しく分かる必要がある。「宗教」というのは、「キリスト教のような信仰」だとすれば、神道は本当に宗教ではない可能性は高いと思う。なぜなら、キリスト教と根本的に異なるからだ。信じるべき教条は神道にはないし、教祖もないし、聖書に相当する書籍もない。倫理的な教えを考えても、はっきりしたキリスト教の倫理と対照的だ。神道の倫理は曖昧で、自然に時代と一緒に変わってくる。それに、キリスト教の神様と神道の神様は共通点のない存在だ。欧米でキリスト教を模範として宗教を考えることは多いが、それでも基準として正しくないだろう。仏教も、宗教性が疑わしくなるので、定義は狭過ぎると思えてならない。

キリスト教を模範とすることは良くないとすれば、どう考えたらいいかが問題になる。この投稿で「宗教」を定義するつもりはないが、そうしない限り、神道は普通の宗教であるかどうかは、決められない。これほど難しい問題であれば、何の為に解決しようとすることをよく考えたほうがいい。解決しても状況があまり変わらなければ、無駄な努力になるからだ。この場合、法律のことだろう。日本国憲法で、宗教の自由は保障され、行政が特定な宗教へ特別な待遇をしないことも定められる。この法律の立場から考えたら、神道はもう宗教であることは決まっている。裁判所で法律の解釈を考えたら、神道はいつも宗教として看做される。(神道関連の儀式は、場合によって宗教的な行動ではないとも判断されるが、神道自体は宗教であるという。)神社も宗教法人だし。私は、法律上このままがいいと思う。宗教の自由が神道の重要な後ろ盾になるので、行政からの支援の代償として放棄すべきではないと強調したい。

神社の活動の立場から考えたら、宗教か超宗教かは決めなくてもいいと思う。誰でもいつでも受け入れる態度を保てば、神社側から誰も排除されないので、参加しない自由を尊重すれば、神社がもう必要なことをしたといえよう。神社の神事に参加しては行けないと思う人がいれば、参加しなくてもいい。神社側から抵抗はないことで、神社の関係者ができることはもう完璧だ。

この点と関わるまた二つの点にも考えさせられた。

一つは皇室の神道の中の役割だ。田中氏は明らかに尊皇派だから、重要な役割を解く。歴史的に、皇室と神道の関わりは密接だったことは否めないが、神道は皇室にとって重要であることは、神道にとって皇室は重要であることと同じではない。違和感の原因の一つは、やはり明治維新から終戦までの西洋風の天皇制との繋がりだが、もう一つは普遍的な神道観念と関わる。それは、神道がどれほど中央に重みを置くべきかという問題だ。私の考えは、中央をそれほど重んじない方がいいということだが、そうすれば一つの神社や皇室をどこの神社でも尊崇すべきとはいえない。

もう一つは神仏習合のことだった。石清水八幡宮は、創建された時点から神仏習合の施設だったが、元々の呼称は石清水八幡宮寺で、僧侶が主役を担ったそうだ。明治維新で神仏分離があったが、田中氏がこの政治的な干渉を惜しむようだ。最近、仏教のお寺との協力を強化して、石清水八幡宮で明治以前に重要だった放生会{ほうじょうえ}を本格的に再生することにしたそうだ。「本格的に」というのは、延暦寺から天台宗の僧侶を呼んで、仏教の儀式として行ってもらうということだ。

歴史的な立場から考えたら、これを歓迎するしかない。150年間停止された儀式を再起するのはとてもいいことだ。しかし、個人的にちょっと疑問符が付く。なぜなら、仏教の基本の教えは、この世の苦しみから脱退するべきだし、脱退する方法を解くことだからだ。一方、私は苦しみから脱退するべきではないと思う。苦しみは良くないのは認める、いや、強調するが、苦しみを脱退する為に、この世を脱退する必要がある。この世との繫がりを私は重視するので、この世を脱退する目標を認めない。だから、個人的に仏教と絡まない神道のほうがいい。とはいえ、戦前の神道で、神仏習合は歪曲だったという解釈があったので、その傾向が無くなったことを強く評価する。

このような一般論に加えて、石清水八幡宮についての話も多い。これも興味深い。歴史のある神社には独特な慣習は多いし、皇室との関係は長くて深いので、勉強になった。私の考えは、神道を理解するために神社を一つひとつ理解しなければならないということだから、有名な神社も、無名な神社も、理解したらいいと思う。特に興味があったのは、超自然的なことについての記述だった。神様はそもそも普段に経験しない存在だが、神道についての書物にもその存在や性質に触れることは極めて少ない。この本で、田中氏が祈りが神様に伝わることを信じないといけないと述べるし、石清水八幡宮で神様の働きを経験したかと思ったこともちょっと披露する。その経験は曖昧だったので、経験自体を信じない理由はないが、経験の後ろにある現象は何であるかは、まだ分からない。解釈は慎重に行うのは重要だと思う。すぐに否定せず、容易な解釈を鵜呑みせず。

上記以外の興味のある点は多い。神社本庁がどうやって東日本大震災に対応したとか、共同体と神社の関係などが語られるので、特に知識や経験がある立場から神道を再発見する本として、強くお勧めする。


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