最近、長期的な問題が話題になった。環境問題が代表するだろうが、少子高齢化も同じだし、長期だと言えなくても長い方の中期の日本の財政再建の問題もそうだろう。しかし、環境問題は、私たちの孫の世代の問題を考えなければならない。それほど将来になる問題に着いて無関心になる人は殆どだ。
それは一概に悪いとは言い難い。なぜなら、50年後の状況を予想するのは大変困難だからだ。確かに50年後の問題を、50年後の人に任せたほうがいいとも言える。しかし、現在の行動で将来の問題への影響を及ぼすこともある。例えば、準備には50年間は必要である行動なら、今準備を始めないなら、50年後の人にはこの選択肢はない。だから、将来の対応を今決めるのではなく、将来の世代のためには役に立ちそうな選択肢を用意するべきだろう。
そうする為に、将来の状況を考えて、感心する必要がある。それをどうやって沸き起こすかは、問題だ。
関心を示す例はある。例えば、伊勢の神宮で大正時代から当時から200年後に式年遷宮に必要な木材を神宮の所有地から調達できるように林業の準備を始めたそうだ。もう100年ぐらい続いてきた事業だから、目標に達する可能性は少なくない。同じように、自分が死んでからの家族の生活に配慮する人は少なくない。つまり、人が長い将来に生き残ると思われる組織に属すれば、自然に遠い将来のことも考えると言えないだろうか。
でも、単純な一員になることは充分ではないようだ。国が続く可能性は高いが、将来についての関心はまだまだ薄い。だから、将来の状態自体についての感情的な繋がりは必要だろう。伊勢の神宮でその条件が満たされるので、遠い将来の式年遷宮の準備に携わるだろう。家族であれば、100年後、200年後などに想像できることがあるだろうから今の準備に着手するという気持ちも効果的だろう。だが、このような関心を広めるために、社会の構造を適切にする必要がある。社会は不安定であれば、将来にはできないと思う人は多いはずだ。そう思ったら、合理的だし。だから、安定した社会も重要だ。そして、準備が政府などに奪われない状況も必要だ。
これは問題だ。なぜなら、曾孫などの世代の為の備えは、格差社会の固定化に繋がるからだ。家族ではなくても、既存の組織の影響力の固定化も問題視したほうがいい。
だから、いつものように、二つの結果に考慮して、バランスを取らなければならない。