考古学から見る伊勢の神宮~神道を知る講座VIII第3回

先日は國學院大學のオープンカレッジの神道講座が開かれた。第2回を仕事のために欠席したが、ブログで書いていないが、今週行けたので書きたいと思う。そして、今週の講義の内容は特に興味深かった。講師を務めたのは國學院大學の笹生先生だったが、専門は考古学だから考古学の立場からの分析だった。

焦点は、古代の景観だった。神宮では、伊勢市での発掘調査で縄文時代から中世まで使われた集落は、内宮に近いところに発見された。特に5世紀代から盛んになったそうだ。そして、集落に隣接された古墳群もあるそうだ。これは6世紀半ばからだそうだが、古墳は円墳で、直径10メートルぐらいという。そして、内宮の宮域からも出土品があるが、この遺品は5世紀代以降のものだそうだ。

この成果を合わせたら、次のような推測がある。5世紀に神宮の祭場が成立したが、6世紀から祭祀を行う人たちの集落の隣に祭主の古墳が作られた。笹生先生によると、これは単純な墓ではなく、祖先を崇拝するための施設として思ったほうがいいそうだ。つまり、祭司の職が世襲され、先祖を大事にすることになった。

そして、外宮の周辺にも古墳がある。集落があったとも推測されるが、推測する位置は伊勢駅の下だから、発掘調査はできない。古墳の内に車塚古墳という前方後円墳がある。全長は43メートルだし、6世紀中頃の須恵器が採集されたそうだ。この古墳の後円部の上には、田上大水神社が鎮座する。この神社は17世紀に再興されたが、中世の資料には御祭神は欽明天皇の御代の神主であるとされているそうだ。欽明天皇は、6世紀中頃に御在位したので、この神社の御祭神は、古墳の被葬者である可能性は十分あると思える。神道にはないとされることだが、昔に遡ったら、別な形で祭祀したようだ。

それから、鹿島神宮と宗像大社の事情も照り合わせた。同じようなパターンが見えるが、古墳の規模は伊勢よりずいぶん大きいそうだ。同じように5世紀や6世紀から成立するそうだが、宗像大社の沖ノ島での祭祀は、4世紀から始まったが、5世紀には画期があったそうだ。九州からの祭具が現れることだから、地方豪族が祭祀を担うことになったのではないかと笹生先生が言った。

証拠を考えたら、5世紀中頃には神道の祭祀には大きな変化があったと言えるだろう。そして、鹿島神宮や宗像神社は、祭祀は直接に地方の豪族によって行った可能性は高いが、伊勢の古墳の規模を考えたら、伊勢に居住した人の位はそれほど高くなかったようだ。つまり、神宮は王権の祭祀を行ったが、王朝から委託されたので現地で祭祀に携わった人は大王の臣に過ぎなかった。

それに、神宮の伝承を見たら、内宮は紀元前の垂仁天皇の御代に建立されたそうだが、外宮は雄略天皇に建立されたそうだ。雄略天皇は垂仁天皇と違って実存した歴史的な人物だし、雄略天皇の御代はちょうど5世紀だった。だから、私の推測は、神宮は実は雄略天皇によって建立されたのではないか。後世になって、歴史をより遡らせようとして垂仁天皇の時代に託したが、雄略天皇と完全に切り離すことはできず、外宮の建立を雄略天皇の御代にした。これは、笹生先生が言ったことではないので、私の考えに過ぎない。

そして、様々な証拠を集めて、神道と言える信仰が5世紀に始まったのではないかと私が思う。4世紀には前駆者のような現象があるが、神話などに記載されたことも5世紀に当たるそうだし、考古学の成果は、古社の歴史も5世紀から始まることは多いようだ。「神道」という言葉はまだ使われていなかったと思ったほうがいいが、現在から神道の発展を把握するために、5世紀から神道が存在したと考えたほうがいいと思う。5世紀は、大和王権の成立の時代でもあるので、神道と大和王権の間に密接な関係が最初からあったと言えるだろう。でも、地方の豪族との関係も深かったので、単純な形態ではなかっただろう。

神宮の土器や織物を作る場所の考古学的な調査についても笹生先生が話してくれたが、それを省略する。これほど興味深い内容だったので、仕事の状況が次回への出席を許したらいい。


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