神道の後継者問題

先週の『神社新報』に五月の定例評議員会に関連する記事が多く掲載する。その一つは、山口県神社庁の庁長の野村清風氏の自由討論だ。題として「少子高齢化社会と神社界の諸問題」を掲げる。

記事で神社神道が直面する深刻な問題が鮮やかに描写される。山口県の人口が減りつつあるし、集落が限界集落になっているし、それに若者が雇用を追って大都会へ流出しているそうだ。だから、野村氏が神社の合祀や氏子再編の必要性が迫ることを認める。説明された状況を考えたら、確かにその通りだ。氏子の人数が半数になったら、神社の経済的な基盤がなくなるし、祭祀を支える人でも不足する。神道にはお金はそんなに必要はないが、人はいないと祭りが成り立たない。地域感情と氏子意識が問題として掲げられるが、それもそうだ。数百年の歴史がある神社が合祀でなくなることを許したくない人はおそらく少なくないだろう。逆に、いなかったら神社の状態はもう極めて危ういと言える。だから、解決策は中央からではなく、現地の人と話し合いながら、そして現地の人同士の話し合いを勧めながら決めるべきだと思う。当事者の真剣な賛同はない限り、問題を本当に解決することはできない。

他方、後継者問題も深刻になっているそうだ。山口県の宮司の20パーセントには後継者問題が抱えられるそうだ。経済状況が大きな要因となるそうだから、氏子区域などの再編の必要性が浮き彫りになる。しかし、このところで私が賛同できない意見も出ている。次世代がある社家には、神職を受け継がずに別な職に就く子供に対する「子供の意志を尊重する」と答えた人は2割だった。野村氏が「衝撃を受けた」と書いた。私も驚いた。2割に過ぎないか。しかし、野村氏の驚きは逆だったそうだ。「2割にも至るか」と。

野村氏によると、社家には神社神道や日本の伝統を受け継ぐ使命があるそうだ。だから、この認識を昂揚するべきだと主張する。

この点で、私の意見が異なる。先ずは、親には子の自由を縛る資格はないと思う。親が子を生むことを決めるが、子が生まれてくることを決めないので、親には義務があるのに、子には義務は一切ないと思う。もちろん、愛情や感謝で親に貢献したい気持ちがある場合は多いし、そしてそれは大変いいことだと思う。しかし、それは生まれながらの義務ではなく、親が行動によって呼び出す気持ちだ。職業の選択肢を制限するわけにはいかない。子が神職になりたがらなければ、職業の魅力を増すべきだろう。それでも受け継ぐ気はなかったら、別な人を跡継ぎとして受け入れるべきだ。

それは倫理的な理由だが、実践上の理由もある。無理矢理神職にさせられた人にはやる気が溢れるはずはない。不満が心の中に生え、少なくとも経済的な利益を得ようとする行為を犯す可能性は充分ある。「神様に浄心で奉仕する」はずはない。仕事はしかたがない重荷に過ぎないからだ。だから、神社本庁が「御守を商品のように扱うべきではない」と戒めても、無視する。神職になりたくなかったし、神社本庁はただ東京に集まる老人組に過ぎないし、自分が自由にしてもいいしと思うからだ。

私の考えにも、理想的な状況は数世代の歴史を誇る社家が神社の祭祀を担うことだが、生まれてきた積極的な後継者はなかったら、別な人材を探したほうがいい。対策として、一般人の神職資格取得と奉職を促進する対策に加え、社家に生まれた人へ神社神道の魅了を感じさせる誘導の製作も講じたほうがいいのではないか。


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