また先週の『神社新報』の記事だが、「杜の思ふ」というコラムで「正しい答へ」という記事があった。著者の須浪伴人氏は翻訳家として働いているそうだが、「正しい訳」を求められることは多いそうだ。しかし、言語は流動する存在であるし、言語を越えたら相当する言葉はない場合もあるので、必ずしも「正しい訳」はあるとは限らないと主張する。その通りだ。英語を教えるときよくそういう。日本論理検定協会でロジックを教える時もそうだ。その方がビックリさせるだろうが、ロジックでも正解は一つに限らない場合は多い。(ちなみに、これは検定の設問を難しくする要素の一つだ。問題の形に気をつけたら、一般的に複数な答えは妥当としても、この問題には一つしかないようにできるが、間違いなくそうするために苦労しなければならない。)著者の主張を裏付けるのは、記事のタイトルの表記だ。最後に「へ」がくる理由は、『神社新報』が歴史的な仮名遣いを使用するからだが、入学試験でこの表記を使ったら、不正解になるはずだ。
神道も同じだという主張が記事の趣旨である。作法なら、地域や神社によって異なるし、神学の立場もそれぞれであるが、「だからこそ面白いと思ふのだが。」と結ぶ。私も何回もこのブログで同じことを書いたので、もちろん賛成する。その観点から考えたら、同じ『神社新報』で報じられた「神社検定」がちょっと疑問になる。受験者は6100人ぐらいだったそうだが、検定が成り立つために正解と不正解をはっきり区別する必要がある。参級には深刻な問題ではない。なぜなら、入門で「神宮の主祭神はどなたですか」のような問題はいいですし、「天照大神」以外の答えはないからだ。とはいえ、中世のいわゆる伊勢神道の立場をとれば、主祭神は外宮の豊受大神であるとされたし、さらにこの神様は国常立尊であったとも強調したようだ。だから、現在疑いはないと言えても、歴史的にいつもそうだったとは限らない。まさに上級になったら、答えは明らかではない場合が多くならないかという懸念が払拭されない。
でも、言語や神道には限る現象ではない。実は、科学にも見えることだ。一括したら、「不正解」になる答えがあるとしても、例えば神宮の主祭神は八幡様ではない、一つの「正解」の答えもない場合は多い。このことは、私もより広く認めてほしいと思う。