保守的な議論

6月11日付の『神社新報』の論説で、次の表現に目が止まった。

「一般に右側陣営の人々は、その情感や志に優れたものを保持していても、それらを説明する論理はほとんど持たず、理論形成を怠ってきていた。」

その論理的な欠陥を補った人についての論説なので、意見はそのままではないが、確かにその通りだ。保守派には感情があるが、論理はないとよく言われる。一方、前進派には論理があるが、感情はないとも言われる。

ある意味で考えたら、これは当然な結果だと言える。なぜなら、論理を駆使して問題を考えれば、問題の目新しい側面が見えてくるからだ。論理的に考えてから、考える前の考え方をそのまま持つことは極めて少ないのである。更新が詳細に止まる場合もあれば、根本的な改革が咲く場合もある。だから、「前世代と同じ考え方」を支持する保守派には、論理的に考える人は少なければ、当然だ。考えなかった人はもちろん親に教えられたままに信じるが、考えた人の間に別な考え方に改めた人は多いからだ。

それに、「保守」は、単純に「前世代の考え方を維持する」という意味に過ぎなければ、保守派を払拭したほうがいい。考えずに古い態度などを護持するのは社会的にも倫理的にも無責任で危険だからだ。

そうすれば、責任を持つ保守的な考え方は何だろう。まず、考える必要がある。子供のころから感じてきた事実は不十分だ。過去のやり方や社会構成は一概によかったとは言えないので、少なくともいい点を区別するべきだ。そうすれば、刷新や改革は必要なポイントを見つけるはずだから、もう保守派ではなくなるのではないかと思う人もいるかもしれない。私は、そう思わない。

保守的な考え方は、過去にあった風俗や習慣には価値があると述べる立場だ。つまり、過去にあったことそのものが価値になる。発想した時にはまったく価値はなかったことであっても、歴史を持つようになった状態で価値がある。例えば、江戸時代に女性が歌舞伎から追い払われたが、当時にそうするべきではなかった。男女差別だ。それでも、今の歌舞伎の女性のない状態には価値があると言う人は、保守的だ。その反対の左翼は、発症された当時には価値はなかったら、古くなったからといって価値を得たわけはないと強調する。

歴史には絶対的な価値を与えないほうがいいが、価値を評価すれば、今の創設を認めるべきではない制度の存続を認めるべきだと判断するケースは少なくないだろう。

例として、皇室継承の状態を考えよう。現在の考え方を踏まえたら、女系天皇を認めるべきだ。実は、人間の一般の平等から考えれば、皇室自体は怪しいが、少なくとも皇室の中で男女差別を認めるべきではない。だから、女性宮家だけではなく、女性天皇も女系天皇も認めるべきだ。保守的な考え方はどうだろう。まずは、男女平等を認めよう。新しい天皇制を創設しようとしたら、女系天皇を認めるはずだ。しかし、そうではない。千数百年の歴史を持つ皇室の存続を考えている。その間、継承はずっと男系だった。だから、男系を廃止するために、かなり重い理由は必要だ。その理由はなんだろう。理論的には、男女平等ではないが、事実上の影響は微小だ。皇室意外まで及ばないし、皇室は十数人に過ぎない。では、象徴として男女差別を正当として見せるだろう。本当にそうであれば、改革するべきだが、伝統を踏まえてこの問題を回避する方法がある。歴史を見たら、女性天皇は数人ある。奈良時代には多いが、江戸時代にも見える。保守的な立場から考えても、女性天皇を否定する理由は全くない。だから、女性天皇を認めるべきだ。伝統もあるし、論理もある。しかし、男系の女性しか認めない。女性天皇の皇太子は、原則として、天皇の子ではない。天皇の子は、皇族ではないからだ。

ここに、保守的な考え方は明らかだ。天皇の子は皇族ではない状態は合理的ではない。しかし、現在の倫理に応じながら先祖から受け継がれた伝統も護持する。保守派にはこのような議論があれば、歓迎する。


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