一人で、また普通の日

今日、仕事があった。オフィスで働いていたとき、ゆり子からのメッセージが届いた。アメリカでのんびりしているそうだ。

私ものんびりしたいが、もう少し頑張らないと。

でも、今日の暑さで、ブログの内容がなかなか湧いて来ない。仕事の進み具合は悪くなかったので、明日も頑張りたいと思う。

でも、日本の夏は暑くて、働き難いよね。

礼儀作法

礼儀作法は何の為だろう。四歳の子供がいれば、この問題を考える機会は多い。子供が礼儀に違反すれば、どういう風に戒めた方がいいかが分かる為に、例後の目的を把握しなければならない。

過去を見れば、礼儀が社会の階級や秩序を維持する為に存在した時代もあったと思える。しかし、この目的を認めない。

もう一つの目的は、相手に敬意を表すことだが、この目的を評価する。相手に敬意を表すのは重要だし、その態度も貴重だ。それに、敬意があるかのように振る舞ったら、本当の敬意が沸き上がる傾向もある。人間の心理はそういうことだ。お互いに敬意を持ちながら心遣いをすれば、社会の円滑かつ一体的な行動になると思う。

敬意を表すのは目的であれば、伝統的な礼儀作法の役割は何だろう。「型には意味はない、心には意味がある」とよく言われる。私は半分賛成だ。心のほうが重要だ。しかし、型も重要だと思う。なぜなら、伝統な型に沿って振る舞うことは、敬意を表す方法だ。言葉のようだ。言葉と意味を結びつけるのは、伝統だけだ。擬音語を除いて、特に繋がる理由はない。日本語で明らかだ。「き」と「じゅもく」が同じ存在を指すが、音には共通点は余りない。だが、森について話したかったら、日本語で昔から定まってきた音を使うべきだ。同じように、お辞儀が敬意を表すことは、伝統に過ぎないが、日本で敬意を表したければ、そうするべきだ。

だから、礼儀作法を無視するべきではない。

一方、礼儀作法の間違いで怒ることは大変失礼だ。相手が敬意を表そうとしたので、憤る理由は何?相手が礼儀作法を間違えても、敬意を表すべきだ。

アメリカへ

真由喜とゆり子をアメリカへ見送った。一緒に空港に行って、手続きにも手伝ったので、審査まで一緒だった。

もう寂しくなった。やはりいるといいね。

真由喜はもう海外旅行に慣れているようだ。空港の行列はつまらないが、ちゃんとやってくれる。もちろん、行きの電車で私に甘えたが、しばらく離れるので、当然だろう。

私は一人で仕事を励む。

楽しみでたまらない

真由喜はやはりアメリカに行きたがっている。この数週間、行く準備として従姉達への手紙を書いたり、絵を描いたり、贈り物を作ったりしてきた。今日も、アメリカでやりたいことの手紙も書いたし、食べる物のリストも作った。アメリカで英語を使わなければならないこともちゃんと言ったので、真由喜も認めているようだ。それを期待する。