社会の把握

行政は、よく社会の情勢を把握しようとする。把握しなければ、適切な政策をとることはできないことは主な理由だし、それは確かだ。人口の高齢化が分からなかったら、年金対策は取れない。もちろん、個人情報を把握する必要はない。政策のために、統計が足りる。

実は、行政に社会が完全に把握できたら、社会には問題があると思ってきた。日本のケースを考えよう。総合人口はおよそ1億2000万人だそうだ。この住民が一人一人自分の人生を行う。一人の人間が把握できる人生の種類は、多くても数百程度だろう。でも、1億2000万人の内に、生活の基本種類が数百に止まれば、社会の多様性が足りないといえよう。つまり、国の政府が住民の生活を把握できれば、それは国民の生活は統一されすぎた証拠になる。

自治体にすれば、状況がちょっと変わる。川崎市のように130万人がいれば、数百の生活は数千人単位になる。そして、同じ自治体に住む人の生活には共通点もある。川崎市に住む人は、山村の農業を行うことはできないし。だから、川崎市のレベルで把握が辛うじて可能の範囲に入るだろう。川崎市の区で、10万人ぐらいだから、数百人単位で把握できるだろう。だから、地方分権の動機の一つは、管轄下の住民の生活を把握することはできるレベルだからだ。

一方、10万人程度の自治体でも、すべての生活が行政の範疇に当てはまれば、市民の自由度が足りないといえよう。自分なりに生活できないようだ。だから、行政には柔軟性は必要不可欠だと思う。市民には行政の範疇に入る義務を科すべきではない。むしろ、行政の範疇を市民に合わせて修正するべきだ。法律を、この事実を念頭に置いて作るべきだと私は思う。


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