この本は新書版であり、先ほど読んで書評した『図説 日本の神々を知る 神道』という武光誠氏の本の加筆・修正版である。買った時、その注意書きに気が付かなかったが、読み始めたら、「あら、読んだことがあるのではないか」と思った。やはり、加筆修正を特定する為に、細密に前版と比べなければならないので、私の認識では前の本とほぼ同じだと言ってもかまわない。
今回の投稿で、この本の特徴を一つ取り上げたい。前にも指摘したが、この本で武光氏が穢れ、厄、そして祓いを重視する。穢れや厄は、自分の行動からも、周りからも付いてくると述べ、祓いで穢れを落としたら人生で成功できると主張する。
この考え方はよいと私は思う。自分でやったことから悩みや後悔が発生すれば、これからの人生の妨げになることは多い。同じように、他の人にされたことも、自分のせいではなくても、ストレスになったり、将来の問題になったりする。病気や天災のような禍も、力や元気を奪って、将来に黒い影を落とす。このような現象を「穢れ」と一括しても間違いではない。「穢れ」が本当に「気枯れる」から転じた言葉であれば、言葉自体に重要な点が結晶される。このようなことがあれば、気が落ちるので、解決や未来開拓に向けられなくなる。
この穢れを忘れて将来に向けることは、先ずできないし、それにそうするべきではない場合も多い。特に自分が犯した罪が穢れとなったら、単純に忘れて進むことは無責任だ。良心を持ったら、そういうことはできるまい。一方、禍で重要な人を失ったら、「忘れる」のは無理だ。それに、その人にまつわるいい思い出もいっぱいあるはずだから、忘れたくもなかろう。だから、祓いは忘れることではないと主張したいのである。
払いは、儀式で穢れを認識して、そして穢れの部分を落とすことだ。自分の過ちで起きた穢れであれば、儀式には謝罪や賠償の要素も入ったらよい。もちろん、別の場で行ってもよいが、行ったことは儀式の中で認めるべきだろう。少なくとも、祓いを受ける為に穢れがあったことを認めなければならないので、問題になった行動を行ったことを認める。倫理的に悪くなかったが、結果が良くなかった行動もこの範疇に入る。他の禍の場合、祓いの儀式で禍であったことを認める。普通の出来事ではなかったし、いいことではなかったのも言うまでもない。極端の例で、悲劇に遭ったことと直面して、認める。だから、経験は否定しない。
そして、祓いの儀式で、その本当にあった悪いことが未来の妨げにならないことを宣言する。妨げになる部分だけを落として、祓ってもらう。大祓詞で書いてある通り「罪という罪は…祓え給ひ清め給ふ」。経験が無くなることではない。しかし、立ち直る。これからのことには、過去のことが問題にならない。責任があれば、責任を負うための力を取り戻す。責任はなかったら、また自由に生きる為の元気を得る。
儀式でこのような効果があるかどうかは不明だが、この考え方は素晴らしいと思う。だから、儀式でこの考え方を推薦する神道も素晴らしく思う。過去はもう変えることはできないので、問題にさせずに未来と挑戦すべきだ。私の神道の観念で、この点は重要だ。