『出雲ー聖地の至宝ー』

今日、休憩の一環として東京国立博物館の特別展の『出雲ー聖地の至宝』を見に行ってきた。思ったより混んでいたが、良かった。

出雲の特別展と言えば、やはりあの銅鐸と銅剣だ。本物も復元品も展示されたので、新品のときのイメージもできた。そして、今まで分からなかった点も分かった。それは、弥生時代の銅鐸は、日本の様々なところから出土されたが、同じ型で創られた現存品もあることだ。作成方法や貿易網を把握する為の重要な手がかりになっていると思うが、ある意味2000年前の大量生産だったので、ちょっとびっくりした。

ところで、銅鐸は、私の神道の歴史観に有用な役割を担う。弥生時代の儀式には銅鐸は重要だったのは明らかだが、8世紀以降の神祇信仰には使われた証拠は、私が知っている限り、ない。だから、弥生時代の宗教に「神道」という呼称を使うことには慎重だ。弥生時代の宗教が神道に流れてきたのはほぼ疑いないが、弥生時代の宗教はまだ神道ではなかったと思う。もちろん、この意見は現在の証拠に基づく。荒神谷のような大発見があれば、一変される可能性も充分ある。

さて、特別展に戻ろう。出雲地方からの神像も展示された。神像を展示すること自体はちょっと不思議だ。ご神体は、公開しないのは原則だ。もちろん、神霊を遷してから公開してもいいので、展示された神像はそうされたと思ってもいい。それでも展示するために作られていなかった作品を展示するのはまだ妙な気持ちだ。

でも、一番印象的なのは、平安時代の出雲大社の充分の一の模型と宇豆柱だった。充分の一でも、模型はかなり大きかった。なぜなら、平安時代の出間大社の高さは、48メートルだったそうだからだ。充分の一でも、4.8メートルだ。階段の長さは一町で、109メートルだったというが、模型の階段は10メートルの長さだった。そのまま現存したらいいと思った。

もちろん、伝承を疑った人は多かった。展示された出版物から、本居宣長もうその一人だったことが分かる。出雲国造の家に伝わった大社の本殿の図は、宣長が疑いながら写したが、2000年の発掘調査によって、図の通りの本殿の後は発見された。宇豆柱は、その証拠そのものだ。本当に大きな木柱三本が束ねて、より大きな柱になっていた。見たら、当時の本殿の大きさを実感できた。

一時間位で回って、全ての説明を読んだし、後で図録も買った。図録は、より詳しい内容が載っているので、ゆっくり読みたいと思う。

その後で、溝の口でゆり子と真由喜と合流して、ゆり子のiPhone5を受け取った。私まだ旧型のiPhoneなのだけれども。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: