『神道の常識がわかる小辞典』

この本は新書だし、神道の入門書であるかというと、そうだ。しかし、普段の入門書と違って、著者の三橋健氏の神道の見解を説明する。つまり、客観的な「言われること」に限らず、三橋氏の研究の結果や解釈も入っている。三橋氏は國學院大學の名誉教授なので、神道の解釈は異端ではないが、誰も賛成する内容から逸脱するところは多い。その結果、私にとってこの本は大変興味深かった。

内容についての感想を述べる前に、一言を言っておきたい。本の最後に、『神社の常識がわかる小辞典』という作品が紹介される。つまり、この一冊は神道の紹介の半分だ。その結果、お参りの作法などの説明は確かに不十分で、もし神道の一冊の入門書を求めたら、この本が応えない。しかし、神道にもう少し興味を持っている人には、薦める。続きに、その理由の詳細を説明する。

この本が主に神道の概念や思想を紹介する。重視する点は、神道に触れたことのある人を驚かさない。禊祓・まこと・たまふり・罪穢・神は焦点となる。それに、言うことはびっくりさせないが、考えさせると思う。つまり、解釈の主流を汲むと認めざるを得ないが、新しい角度からの見せ方だ。特に気になった点は取り上げたい。

まずは、禊祓の説明で、禊と祓が今混同することを認めながら、それに古事記が撰述された奈良時代初期にはもう混同していたことを認めながら、元々二つの別な儀式であったことを強調する。祓は、はらえつもの(祓具)を供えて、罪を購う意味を持つ儀式で、禊は、心身ともにから不浄なもののすべてを清める儀式だったという。だから、密接な関係を確かに持つが、相違点は重要だと言っている。祓で、購いとして何かを供えなければならないと強調する。古代の供物は、布や衣類だったそうだ。それは、布は最高級の品物だったからだと言う。すぐに腐らない品質で、見栄えもよいので、罪を購うために相応しいと判断されたそうだ。祓いの起源として、高天原から追放されたスサノヲ命が沢山の財産を提供したことを指摘する。そして、有名な伊弉諾命の禊の話で、海水に入る前にすべての身に付いているものを脱ぎ捨てることも指摘する。これは、祓の意味もあるし、不浄なものが衣に付着したら、海水に入る前に捨てなければならないともいう。その上、禊に重要なことは、水に入ることだ。原則として、全裸で海水に入るのは本当の禊だと主張するが、現代そのような禊は殆どない事実を惜しむ。禊祓で、儀式を受けてから穢れた人が蘇生することも重視する。

これは重要な概念だと私も思う。侵した罪の結果は周りの社会の問題だから、自分の力でなるべく直すべきだ。それは購いだ。そして、禊でその痕を流して、いい人として同じ社会に貢献する。例としてスサノヲ命が掲げられるが、高天原での乱暴の後で出雲で八岐大蛇を退治したのは有名な話だ。罪を犯した人の蘇生を認めて、積極的に促すのは重要だと私は思うので、私にとってこれは神道で重要な理念だ。そして、お祓いで何かを奉ることも、禊で裸になって水に浸ることも重要であろうと考えた。儀式は、心理への影響で働く。(超自然的な側面があれば、それも働くが、心理的な働きは疑えない。)その印象が強ければ強いほど儀式は効果的だから、非日常なことがあればいい。だから、儀式の形についても意味についても考えさせてもらった。

次は、まことについてちょっと述べたいと思う。ここで、三橋氏が強調するのは、生と死のように正反対として捉えられる存在は実は一緒になって、一つになるのは本当のまことだということだ。このような発言は、私にとって分かりにくい。何が言いたいのは不明だからだ。もちろん、生と死の捉え方によって、正反対な存在を指すのは否めない。だから、その捉え方は間違ったというはずだ。しかし、そうすれば、どう捉えたらいいのだろうか。「生」と「死」が同じ存在を指すかというと、普通の言葉遣いでそうではない。「死」が指す存在は実は「生」が指す存在と全く同じだと言おうとしたら、もう少しはっきり説明して欲しい。意味不明な表現に基づいた「明らかなこと」や「悟った」と人が確信したことが後で虚偽だったか、意味不明のままだったか、のような現象は文献に少なくないし、知恵が讃えられる人物もこのような誤りを指摘するので、私の不能非才のせいにとどまらない。それに、分かりづらかったら、大衆には全く役に立たない教えだ。

そして、三橋氏は神道で「さわやかに」生きるのは重要だとも強調する。このことについて深刻な疑問を抱く。さわやかに生きるというのは、自分の行動について疑問を持たないことだろう。「そうした。潔く認めるし、恥はない。誰が知っていても、問題はない。」しかし、この態度は、育った社会によって湧いてくるにすぎない。社会が許せば、さわやかな気持ちで人を抹殺する。その極端な話に行かなくても、私の過去を考えたら、三十年前に仮に神社にお参りしたら、大変汚く感じた。隠すべき行動で、露呈されたら恥ずかしかった。なぜなら、三十年前に、私はキリスト教徒の原理主義者だったからだ。もう一変だから、さわやかな気持ちで神社にお参りできる。でも、そう簡単に環境に左右される気持ちを基本とするのは危うい。巧みに操られるからだ。

この二つの点を合わせたら、役に立つ概念が見えてくるだろう。自分が納得する、一貫の人生を送るのはいいことだろう。嘘をつかずに、何も隠さず、疑う行為を完全に避けた人生は悪くないだろう。でも、それでは十分ではない。基盤となる哲学が歪んだら、その人生は罪悪である可能性はある。

最後に、本の付録として載っている年表の一点を指摘したい。日本書紀で語られる神功皇后の話と魏の倭人伝で語られる卑弥呼の話を同じ年表に表示する。ちょうど重なることが明らかになる。それに、神功皇后が「摂政」であったことが終わって応神天皇が即位した時点は、神功皇后が死去した時点で、応神天皇はもう70歳だった時点だったことも明らかだ。すぐに推理することは、神功皇后は事実上天皇に相当する地位に就いたことと、実在した卑弥呼に基づいた可能性だ。神功皇后の朝鮮半島への出征は、もしかして遣魏使の思い出に基づいたのだろう。もちろん、証拠はないが、神話が何らかの事実に基づいた可能性を念頭に置かなければならない。

総括すれば、この本は簡単な入門書になっていないとはいえ、大変刺激的な本で、神道に興味を持っている人にお薦めだ。


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