自由と持続

持続可能な社会というのは、環境問題について考えるときに浮上する概念だろう。しかし、自由との深い関係もある。

持続できない行動は、いつか停止は余儀なくされる。だから、そのような行動を行う自由は、現実に制限される。この制限が一人にしか当たらなければ、特に問題はない。例えば、徹夜するのは、制限される。三日間でできなくなって、無理矢理寝てしまう。(特に私の年齢になったら。)しかし、これは自分の選択だけだ。他の人が原則として関与しない。

一方、一般的に持続不可能な行為もある。例えば、化石燃料は限られるようだ。私の人生の最後まで残るかどうかは不明で、娘の人生以内なくなるのはほぼ確実だ。だから、化石燃料に基づいた社会は持続不可能だ。現代の世代がすべての化石燃料を使って、別なエネルギー資源を確保しない限り、私の孫の自由は今と比べたら著しく狭める。旅行はまた江戸時代かのように歩いて行くしかなくなる。

持続可能な行動をしても、他の人や将来の人にはやる機会を残す。持続できるので、別な人が受け継いでもいい。一方、持続不可能な行動をしたら、他の人からその機会を奪う。それは、原則として問題だ。皆の自由を尊重するために、持続不可能な行為を避けたほうがいい。

しかし、問題はまだある。持続的にできない行為もある。私は、もう人間として初めて南極点に立つことはできない。このような行為を全面的に禁じることも、自由を侵す。これは容易に解決出来る問題ではない。持続的な手法はない行為は、する自由も制限されることを認めざるを得ないだろう。

それを踏まえて、持続的な手法を探すべきだろう。例えば、虎狩りしたい人は少なくないようだ。しかし、妄りに許したら、虎が絶滅して、永遠に不可能になる。一方、毎年の獲物の量に制限を加えたら、永遠までできることだ。虎を狩るまでちょっと待たなければならないが、いつかできる。そして、やりたい人の人数はそれほど多くないと思われるので、皆が死ぬ前にできるだろう。もちろん、虎の倫理的な資格を考えて、狩りを禁じるべきだろうが、それは持続と別な問題だ。

現在社会を見たら、殆どの行為の手法は持続不可能だ。百年後無理になりそうだ。その状況を避けるために、持続可能な手法を検討しなければならない。子孫の自由を尊重するための義務だ。


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