神様のご加護

毎年の一月に『神社新報』がその年の干支の神社関係者の年頭所感を載せる。今年はもちろん巳年生まれの人だ。この記事は一般の神職の観点を表すので、興味深い。先週の記事の一つは、特に気になった。

昭和4年生まれの群馬県のある神社の宮司で、大東亜戦争の空襲の話を載せた。話によると、神社の鎮座地の高崎市が空襲を受け、焼夷弾が落下された。境内の防空壕で待った当時の青年の執筆者の感情が鮮やかに描写されるが、結果は特に興味を引く。境内の周りの建物は数棟消失したそうだ。そして、防空壕の盛った土には、十発の不発の焼夷弾を見つけたと書いてある。それに、境内には550発の不発の焼夷弾もあったという。社家の命や社殿の保護は、神様のご加護のおかげにするそうだ。

それは当然だろう。西洋には同じような話があって、神様のご加護によると信じる人は少なくない。しかし、西洋で矛盾を抱える話だ。西洋の神様は、全能で、普遍的に人間を愛すると言われるので、なぜ消失した住宅を助けなかったかが重要な質問になる。一方、日本の神様の力には制限があるし、特別な絆も持つ。だから、神様が自分の社殿と身近な社家を助けることに精一杯だったと思っても、神道の神学とは矛盾しない。神様を批判する根拠はない。

この事実の解釈は妥当であるかどうか、言えない。偶然だった可能性はまだ残っているだろう。生理学の実験で、偶然の確率は20分の一以下であれば、偶然ではないと判断する基準があるが、その基準でその神社の保護は偶然ではなかっただろう。そして、人間の活動を考えれば、自分の家屋を助けた人もいれば、できなかった人のいるので、他の神社が消失した事実は、反論にならない。

このような話があるからこそ、科学でまだ理解されていない存在の可能性を否定しない。私たち人間にはその存在の本質が分からないのは明らかだが、存在する可能性に考慮すべきだと私は思う。


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